吉田孝行が今季限りで引退した。19年のプロ生活だった。横浜フリューゲルス最後の天皇杯ゴール、神戸を奇跡的に残留に導いたゴール、故・松田直樹氏に捧げたゴール…。そして、現役最後の試合でも、自身の花道を飾るかのようにゴールを挙げた。生粋のストライカーというタイプではない。横浜で、大分で、神戸で、泥臭く走り、あきらめないメンタルで周りを鼓舞し続けてきた。記憶に残るプレーヤー・吉田孝行の19年間――。
取材日:2013年11月27日(水) 聞き手/小野慶太
引退をするという決意
──11月24日にノエスタでJ2最終節(vs熊本・3○0)が終わり、現役を引退されました。
吉田 セレモニーをしてくれたクラブに感謝しています。サポーターもすごい声援で、試合もセレモニーも盛り上げてくれました。感謝しています。(熊本戦でサポーターは)試合の前からずっと僕の応援をしてくれていました。それを聞いて『やっぱり最終戦なんだな』と、感じました。試合は良い形で勝ちましたし、笑顔で終われたと思います。でも、19年を振り返って、つらかったこと、苦しかったことを思い出すと涙が出てきました。
──試合前からサポーターは、吉田選手が所属した各クラブでの歴代のチャントを送っていました。
吉田 他チームに所属していたときのモノまで来るとは思っていませんでしたから、ちょっと泣きそうになったんですけど(苦笑)。さすがに試合前に泣くのは良くないと思ってグッとこらえました。
──チームメートが吉田選手にゴールを取らせようとしている気持ちは感じていましたか?
吉田 試合中、亮太(森岡)、松村亮、ポポなんかはずっと僕にパスを出そうと、僕のことばかり見ていました(笑)。試合前は点を取らせようというより、『何とか孝行さんをピッチに立たせよう』という雰囲気を数日前から感じていました。
──チームに引退を告げたのは第37節・松本戦(10月20日)のあとでした。その意図は?
吉田 去年、クラブと契約するときに『あと1年、チームをJ1に上げて終わりましょう』という話をしていました。今年の8月の終わりくらいから正式に辞めるという話をし始めて、最終的には9月の終わりくらいから、どういう形で持っていこうかということを決めていました。ちょうどそのころチームの調子も雰囲気もすごく悪かったんです。だから松本戦の後に言おうと決めていました。クラブからは『自分のタイミングで話していい』と言ってもらっていたので、『ラスト5試合、チームにメッセージを残そう。昇格と優勝に向けて頑張ってもらおう』、そういう意図だったんです。そうしたら発表する直前の松本戦は7-0で勝った(苦笑)。もちろん、7-0の勝利はうれしかったですよ。
──引退を告げる前日の夜はどんな心境でしたか?
吉田 引退することは決まっていたので、『いつ言おういつ言おう』といった感じでした。早く言ってみんなに知ってもらったほうがラクになりますからね(笑)。チームメートは本当に寸前まで知らなかったです。『驚いた』という選手もいましたが、年齢を考えれば驚くことではないと思います。
──引退を発表してからの気持ちの変化は?
吉田 まったくありませんでした。いつもと変わらず、特別なことをしようとも思わなかった。普段から練習している時間は100%でやっていたつもりでしたし、むしろ、それ以上の自分は出せないと思っていましたから。
──最終節のゴール後、松田直樹選手の背番号である「3」が入ったヘアバンドを頭に巻きました。引退することを松田さんに報告されていたのでしょうか?
吉田 報告というよりは、一緒に戦ってきたという意識が僕の中では強かった。最後ということで何かをしたいなって。点を取ったらヘアバンドをするのが一番いいんじゃないかと。取らなかったら、ヘアバンドを手に巻いて終わりだったんですけど(苦笑)
──2011年8月4日に松田選手が亡くなり、半年経っても「実感がない」という話をされていました。吉田選手の中でどう受け入れていったのでしょうか?
吉田 まだ受け入れられないというか、信じられないという部分は常にあります。練習の帰りとかにサッカーのことを考えるとき、ふとマツのことを思い出したりもしましたし、これからも忘れることはないですね。(お墓参りには来年)1月くらいに行けたらと思います。引退の報告も兼ねて。
キャプテンシーということ
──神戸では、11-12年シーズンに主将を務めました。どのように引っ張ろうと考えていましたか?
吉田 僕の場合、闘将といった常にリーダーシップを取るような選手ではありませんでした。ただ、チームが苦しいときに力を発揮することはできたんじゃないかと思います。チームが良いときというのは、みんなでワイワイ好きにやっていればいいけれど、チームがダメになったときに、誰かが先頭に立って言動だったり姿勢だったりを見せていかないといけません。そういうときに少しは力になれたのかな。そういったスタンスでしたね。
──今季は河本選手が主将を担いました。クラブは当初吉田選手にという話でしたが、吉田選手から「もっと若手に」という話をされたと聞いています。
吉田 シーズン当初に亮さん(安達監督)に呼ばれたときに言いました。『僕がキャプテンをやるよりも誰かに託したほうがいい。昇格したときのことや次を見据えて中堅の選手がやったほうがいいんじゃないか』と。キャプテンマークを1年間巻くことは、すごく重いことだと思っています。1試合だけ巻くのと1年間巻くのとでは、まったく重さが違います。それを巻くことによってチームのことも考えられます。僕が初めて巻いたのは大分時代、26歳くらいのときでした。キャプテンマークを巻くことで、フォア・ザ・チームの気持ちになる。責任感や『やらなきゃ』という気持ちが強くなります。一人でも多くの選手にそれを経験してもらいたいですし、人間としても成長すると思いますから。
──河本選手のキャプテン姿をどう見ておられましたか?
吉田 コウモ(河本)自体は、いろいろなジレンマがあったと思います。けがの時期もありましたからね。常にコウモはチームのことを考えていると思うんです。でも、僕と一緒で…いや、僕よりも言えないというかね、口下手(苦笑)。なかなか言えないんです。そういったことを僕らのような年齢が上の人間は感じていましたから。『何とかしてあげな』、『アイツも考えているんだな』と。プレーでもいろいろ見せてくれましたね。最終戦の1点目、あれで流れをガラッと引き戻してくれたし、松本戦ではオーバーヘッドゴールもありました。最後はプレーでチームを引っ張ってくれたと思います。
──今季、チームの調子が悪いときに選手たちに声をかけたりはされたのですか?
吉田 サテライト(関西ステップアップリーグ)のゲームの後などに声をかけていました。サブチームの選手には『チーム全体の底上げをしないといけない』、『トップチームの調子が悪くてサブチームも悪かったら駄目だ』、『もっと試合に出場するためにアピールをして、チームの底上げをしていこう』という話をしましたね。
──出場の機会を得られない選手もいます。そういうときに、どういう気持ちを持つことが大切だと思いますか?
吉田 みんなプロなので、それぞれ自分が出れば活躍できると考えていると思います。でも、それを前面に出し過ぎると和を乱すことにもなります。だから、その気持ちは自分の中の闘争心として置いておいて、チームのことを考えながらやらないといけない。僕も今季はあまり試合に絡めていない時期が長かったので、サブチームの選手たちと話をする機会が多かったのですが、みんなやはりいろいろな不満を抱えていました。
僕自身、悔しさもありましたが、そういう選手にもアドバイスしないといけないとも思っていました。その意味で自分をグッと抑えた部分もありました。仲間と励まし合いながらやっていました。『なぜメンバーに入れないんですかね?』と言う選手もいましたが、そういった選手には当然ケアもするけれど、『そこがダメだからじゃないか』ということも、ハッキリ言いました。
──吉田選手は戦力外の経験もあります。今季終了後には、何人かの選手が同じ経験をすることになります。選手は戦力外という事実をどう受け止め、乗り越えていけばいいと思いますか?
吉田 サッカー選手にとってこの時期は、独特な空気が流れるイヤな時期なんですよね。戦力外になる選手は当然いると思いますが、僕がそういう選手にいつも言うのは、『このチームを見返すつもりでいいから次を楽しんでくれ』、『ここでの悔しさを次に生かしてくれ』と、いうこと。僕もマリノスを戦力外になりましたから。とても悔しかった。マリノスに『俺を残しておけば良かったのに。後悔させてやろう』という気持ちがありました。それがヴィッセルでの成功につながりました。
みんな神戸を愛していると思いますが、(戦力外になった)悔しさをバネに頑張ってほしい。人それぞれショックはあると思います。僕がマリノスに戦力外を通告されたときは、『1カ月前くらいからずっと溜め息ばかりついていた』と、妻に言われました。ただ、僕らはプロなので、結果を出さないと残れません。だから、僕は引退を選びました。そこはみんな理解しないといけない。アマチュアではないのですからね。
19年間の中で
――現役生活で最も印象に残っている試合とゴールを教えてください。
吉田 19年間で、ですよね(笑)。やはり、フリューゲルスの最後の試合、天皇杯の決勝です。それとヴィッセルの残留を決めた試合。神戸での残留争いでのゴールは思い出深いし、マツに捧げたゴールも印象深いですね(※)」
※フリューゲルス最後の試合:98年横浜Fが横浜Mに吸収合併される(実質的な消滅)ことが決定。横浜Fはこの年の天皇杯決勝に進んだ。99年元日、国立での清水との決勝戦。1-1で迎えた73分に吉田が決勝点を決め、横浜Fは有終の美を飾った/ヴィッセルの残留を決めた試合:10年J1第33節終了時に16位と降格圏にあった神戸は、最終節アウェイの埼スタで浦和を4-0で撃破。吉田は1、2点目を奪う。15位だったFC東京が最終節で京都に敗れたため順位が入れ代わり、神戸は奇跡的なJ1残留を果たした/マツに捧げたゴール:11年8月4日に松田直樹(松本)が死去。6日後の6日に行われたJ1第20節の浦和vs神戸で吉田は14分に先制点を奪うと腕の喪章を捧げた。19分に追加点を決めると、今度は松田の背番号である『3』を指で作って親友に捧げた。試合は3-2で神戸が制している。
――フリューゲルスの最後の試合の経験は吉田選手にとってどんな意味がありましたか?
吉田 あの経験がすべてだなと思うんです。あの経験があったから、残留争いをしても『チームがなくなるわけじゃない』と。良い意味で開き直れて、メンタルをうまく持っていけたと思います。
――監督やチームメートからは吉田選手を評して「勝負強さ」を挙げる声が多く聞かれます。
吉田 どうなんでしょう? 僕は(プロ)1年目からアジアのナンバー1を決めるスーパーカップで決勝ゴールを決めましたし、フリューゲルス最後の天皇杯でも決勝ゴールを決めました。何かとそういうときに決められたので、自分でもよく分からないのですが、もしかしたらそういうモノを“持っていた”かもしれません。
でも、どんな試合も相当なプレッシャーがあるんですよ。自分のゴールでJ1残留を決めることができたときも、J2に落ちるという覚悟を決めながらやってはいたんですが、実はすごいプレッシャーでした。そのプレッシャーをうまくメンタルコントロールして、楽しみに変えられたことが結果につながったんじゃないかと思います。
メンタルコントロールは本当に大事です。どんな大舞台だろうと、リラックスした自分がないといけないと思います。気持ちは大舞台になるほど入るけれど、それを抑えることが重要なんですよね。昔は無我夢中でやっていましたが、いろいろな経験をしていくことで、自分の身に付いていったんじゃないかと思います。
――気持ちをコントロールして試合に出場できる選手はいます。ただ、吉田選手の場合はチームを救うなど、“ここぞのゴール”というモノを何度も決めてきました。そこには何があるのでしょうか?
吉田 なんなんでしょうね(苦笑)。分からないですけど、そういう試合は特にサポーターの応援もすごいですし、人が入れば入るほど、応援されれば応援されるほど燃えてくるんです。『吉田なら何かやってくれるんじゃないか』という期待をすごく感じるんです。そういう思いは選手にも伝わります。奇跡の残留のときも、『タカユキなら決めてくれるんじゃないか』って。そういう声をいろいろなところで聞いていましたから。必要とされているわけなので、人間はそれに応えるために、必死になるのだと思います。
――19年の中でともにプレーして、最も印象に残った選手を教えてください。
吉田 フリューゲルスの1年目のときのチームメートのジーニョですね。彼は94年のアメリカW杯で(ブラジル代表として)全試合に先発出場して優勝した選手です。僕が高校時代に見ていた、W杯に出場していた選手と半年後に同期加入でチームメートになりました(笑)。
ジーニョがいたのは3年くらいだったと思いますが、“プロフェッショナルとは何か”を学ばせてもらいました。もちろん技術もそうですが、プロとしての姿勢ですね。ブラジル代表でしたし、輝かしい経歴を持ちながらも負けず嫌いで献身的に守備をしていました。あれだけすごい選手でも、あれだけ守備をする。もしかしたらいまの自分の原点もそこにあるのかもしれません。
――リスペクトする指導者は?
吉田 リスペクトしている人はいっぱいいますよ。まずは、高校時代に出会ったゲルト・エンゲルス(※)。高校に入った当初、戦術とか何も理解できないのに、ヨーロッパの戦術を教えてくれたのがゲルトでした。彼と出会ったことで、『プロでできる』というイメージを持てたと思います。そして、石崎さん(石崎信弘元・大分監督、来季より山形監督)。大分時代、僕はFW一筋だったのですが、いろいろなポジションをやらせてくれました。FWしかできないと思っていた自分がいろいろなポジションをやることで、プレーの幅が広がりました。いまの自分は中盤もやりますが、大分時代はSBもやりましたね。
岡田さん(岡田武史元・横浜FM監督)、西野さん(西野朗元・神戸監督、来季より名古屋監督)は、二人とも違った独特のオーラがありました。岡田さんは新しいことを取り入れるタイプで、対照的に西野さんは古いことを繰り返すタイプ。ただ、二人に共通しているのは、自分のスタッフをものすごく信頼していたところです。西野さんなら『フィジカルはブローロ、頼む』といった感じで口を出さずに任せていました。それが信頼関係を生むんだと思いました。
あとはシャムスカ(元・大分監督、来季より磐田監督)。彼は僕の当時のサッカー観を大きく変えてくれました。そのころの僕は、サッカーは技術とある程度の戦術があればいいんじゃないかと、思っていました。うまいヤツだけでやればいいんじゃないかって。でもシャムスカと出会ったことで、そこに“メンタル”が入ってきたんですよね。いまの僕は『メンタルがすごく大事』と言いますが、それに気付かせてくれた監督がシャムスカです。
※ゲルト・エンゲルス:現・モザンビーク代表監督。91年から92年、滝川第二高でコーチを務めていた。翌93年から98年まで横浜Fのコーチ・監督も務めており、吉田とは“フリューゲルス最後の試合”を経験している
――それはどういうメンタルだったのですか?
吉田 シャムスカが来た当初(05年)、大分は全然勝てていませんでした。16位、17位と降格圏に沈んでいたのに、そこから半年で“シャムスカ・マジック”と言われるまでに勝っていきました(最終的にJ1・11位で残留を果たす)。メンバーは代わっていませんから、当然、技術も変わっていません。戦術も変わっていないということは、変わったのはメンタルだけでした。
負けているときって、1点を取られると下を向いてしまうんですよね、僕もそうでしたが『2点は取れねえわ』となる。それでビビってしまい、引いてしまう。引いてブロックを作る。多くの監督がそういう戦術を取りますが、シャムスカは『負けているときこそ取りに行け。ゴールの近くでボールを奪えば、すぐにゴールに行けるんだから』と、説いてくれました。“攻撃的な守備”を教えてくれたんです。その経験がいろいろなチームで生かされました。苦しいときに(前から行く)プレッシングに変えたら勝てるようになったりする。そういうことを教えてくれたのもすべてシャムスカだと思っています。
思い描く、これからのサッカー
――将来は指導者を目指されるそうですが、さまざまな指導者との出会いは良い経験になりましたね。
吉田 良いところを取れますからね(笑)。どういうチームにしたいかイメージできている部分はありますし、自分のやりたいサッカーもある。でも、勝っているときは選手が勝手にやってくれるんですよね。でも結局大事なのは、負けているときに何ができるか。それが監督の本当の力なんだと思います。監督になったことがないので、そういう状況になったことはありませんから、自分にはまだ分からないところです。いろいろな指導者の良いところを取って、うまく選手たちのケアもできるようになりたいと思っています。
――吉田選手のやりたいサッカーとは?
吉田 僕はねえ、動くサッカーですね。それぞれの選手がポジションにいるサッカーじゃなくて、すごく昔のオランダのような、人とボールが動きながらパスを回すサッカーです。だから[4-4-2]でもワイドの選手が張るのは好きじゃない。(2列目のサイドハーフを)中にギュッと絞らせてボックス気味にして、SBを上げる。流動的なサッカーが好きです。バルセロナはすべての理想ですが(苦笑)。あれを(僕が)作れたらどこのチームも作れるわけで。別格です。
――選手編成を見て、どんなサッカーができるかと考えたりすることはありますか?
吉田 それはありますよ、たぶんみんなあるんじゃないですか。紅白戦のメンバーを見たときに、『こういうサッカーになるな』とか、『これはうまくいかないんじゃないか』とか、『このメンバーならこういうサッカーができて楽しいんじゃないか』とか。選手の特徴や相性を考えたら、ということですね。でも、もしかしたらこれは、選手だから分かるのかもしれません。スタッフは外から見ているわけで、そこで起きていることは、中にいる者ほどは分からない。逆に外だから見えることもあると思いますが、僕は“中の目線”でずっとやってきましたから。それを外から見て気付けるかどうか、ですね。
――これからのJリーグは新しい世代が引っ張っていくことになります。最後に、若手にメッセージをお願いします。
吉田 日本のサッカーは、W杯優勝を何十年後か(JFAの目標は2050年)に掲げていますので、そこに向かって選手それぞれにできることがあると思います。海外のクラブに行って強いチームで揉まれることもそうでしょうし、Jリーグで成長していくこともそうです。それぞれが高い意識を持って、日本のサッカーをもっと発展させていってほしい。そして、W杯優勝を叶える日が来たらいいなと思います。