Feature 特集

[本田特集・中編] 本田圭佑、孤高のエースの“10年戦争”/南アフリカW杯後の試練

2014/6/2 16:06 0



辛く、苦しい姿を見せたくはない。ましてや、悲劇のヒーロー然と振る舞うことなど、望んでもいない。平然と成功していく様が、カッコ良い。本田圭佑はそれを、「俺の美学」と語っている。ただし、本田の生き様の真意を知るためには、表立って見せない裏側の部分に、大切な何かが隠されている気がする。もちろん、そのすべてを見てきたわけではない。ただこの4年間、彼が厳しい状況に陥っていたその瞬間を、何度か直接目にしてきた。そのとき本田がどう行動し、何を考え、何を発してきたのか。包み隠さず、ここに記していきたい。

文・西川結城

右ひざ半月板損傷。長期離脱へ

 10年の南アフリカW杯での活躍以降、本田圭佑は日本代表のエースへと上り詰めた。アルベルト・ザッケローニ監督率いる新体制になってからは、彼がいまでは「自分の家」とまで称すトップ下の位置に常に居続けている。

 名古屋時代にはサイドのポジション、その後移籍したオランダ・VVVフェンロでは複数の攻撃的な位置、そして前述の南アフリカW杯では1トップと、自らが理想とするポジションに辿り着くまでに、多くの“遠回り”をしてきた。その経緯をあらためて振り返ると、現在のトップ下への思い入れの大きさも理解できる。

 同じようなポジションを巡る争いは、2010年から2013年まで在籍したCSKAモスクワ(ロシア)時代にも巻き起こった。

 スルツキ監督はフィジカルが強く、パスセンスにも長けた本田をボランチで起用したい意向を持っていた。本田も一時的にはその要求を呑んでプレーしたが、最終的には拒否。「ボランチで起用するなら、ベンチでもええ」とまで言い放ったほどだった。

 そうした、CSKAでの駆け引きの日々も続く中、本田は突如大きなアクシデントに直面する。

 11年8月末のロシアリーグの試合で、右ひざ半月板を損傷。その後、クラブ側の催促もあって一度は戦列に復帰したが、再び同箇所を痛めて離脱。結局、長期のリハビリを余儀なくされたのだった。

オスピタル・キロンで見た本田の強さ

 12年1月。本田はスペイン・バルセロナにいた。

 本田の手術を執刀したのは、ひざの名医として知られるクガット氏という人物だった。バルセロナ市内北東部にある、『オスピタル・キロン(キロン病院)』。一般患者も含めて、毎日多くの人が訪れるその総合病院で、本田は再起への道を歩んでいた。

 クガット氏は、かつては現役時代のグアルディオラやメンディエタ(いずれも元スペイン代表)を執刀し、最近ではスペイン代表FWビジャ(現・アトレチコ・マドリー)の手術も担当するなどスペインサッカー界では名の通った医師である。バルセロナ市民にその名を尋ねると、誰からも「優秀な医者だ」という声が返ってくるほど。その彼の下、本田はリハビリと検査の日々を過ごしていた。

 近代的な建築の病舎に入り、受付横のエスカレーターを降りていく。その奥まったところに、“Physiotherapy(理学療法)”と書かれた部屋の入り口があった。室内にはまた別の小さな受付が存在し、そこに座っていた女性にその名を告げてみた。“ケイスケ・ホンダ”。

 すると女性は、「中にいる」と言いながら案内してくれた。

 通路から室内を覗くように見た。そこには、玉粒の汗を流しながら、右ひざに負荷をかけたトレーニングを行う本田がいた。きつく、苦しそうだった。ストイックなまでのトレーニングはどんどん続く。厳しい表情でそれをこなしていく彼の横顔を、こちらは距離をおきながら黙って見届けることしかできなかった。

 理学療法室の外に出て、本田の帰りを待っていた・・・

続きは以下のサービス
でご覧になれます。

ELGOLAZOが総力をあげてJリーグ・日本代表情報を深く、鋭く、そしてどこよりも熱くお届けします!

League リーグ・大会