1.ドイツサッカー連盟の育成プロジェクト
ドイツ代表の危機的な時期
2000年夏、ドイツ代表は危機的状態にあった。ユーロ2000は散々な内容で一次リーグ敗退。主力の高齢化・戦術の硬直化など種々の問題を抱えていた。この問題を解決するための手立ては急務だった。
フランスW杯準々決勝で敗退した98年ごろからドイツサッカー連盟(DFB)は有識者会議の形で長期的な育成を考える動きを見せていたが、2000年に本格的に委員会を設立。一大育成プロジェクトが始まった。
その委員会に招かれたブンデスリーガの指導者が、ハンス・マイヤー(※1)、フェリックス・マガト(※2)、そしてフォルカー・フィンケの3人だった。彼らはクラブでの仕事の合間にフランクフルトに通い、DFBと議論を交わしていった。
当時、フィンケ氏がブンデスリーガで獲得したタイトルはSCフライブルクでの2部における優勝のみ。だが95年には1部で3位という成績を収め、UEFAカップの本大会出場も果たしていた。何より無名選手を発掘する育成面での手腕は、すでに当時のドイツでも知れわたっていた。
フィンケ監督は00-01年にブンデスリーガ6位となりUEFAカップ出場権を獲得した当時のSCフライブルクを「最も優れた可能性を持ったチーム」と振り返っている。00年はドイツ代表にとっての暗黒の時期であったが、長期的に選手を育成してチームを作ったSCフライブルクにとっては、一つの優れた作品が生まれた時期だった。
二つの大きな改革
委員会が実施した改革のうち、フィンケ氏との関係で重要なのは2点。全国の育成センター設立と、移民の受け入れである。
02年にDFBはドイツ全国に育成センターを設置することを発表した。フィンケ氏の言葉を借りれば「日本の“トレセン”にニュアンスが近い」という。このセンターが国内390カ所にできたことで、国全体をカバーする人材発掘・育成システムが進むこととなった。
このシステムを構築する上で多くの国々の例が参考とされたが、フィンケ氏は特にフランスの例を重視した。00年当時のフランスと言えば、98年のフランスW杯と2年後のユーロ2000の覇者。ドイツ南西部のフライブルクは地理的にフランスと近く、フィンケ氏自身フランス語が得意ということもあり、何度もフランスに通い、ギー・ルー(※3)などから助言を得ていた。
当時のフランスでは12〜15歳の間、月曜から金曜までは育成センターで学び、金曜に実家に戻り、週末に所属クラブで試合に出る、というシステムができていた。フィンケ氏は、このシステムをドイツ式に咀嚼することを提案、委員会で議論を重ねた。その結果、週1回の割合で集まって練習する“トレセン”のシステムと、ブンデスリーガ加入条件として自前の育成施設を義務付けることが決まった。後者での育成には、フットボールのみならず、地元の高校と提携した学業や人間教育における育成も含まれる。
もう一つのポイントは、“移民の受け入れ”だった。1960-70年代以降、ドイツに増えてきた移民の2世や3世の子供たちが将来的にドイツ代表でプレーすることができるようにするために、DFBや委員会のスタッフは国や州の政府に働きかけ、帰化のプロセスの簡素化を実現した。
これらの方針の下で長期的に進められてきた育成改革は、08年から09年にかけての若年層の欧州選手権3大会(U-21、19、17)におけるドイツ代表の優勝、そしてA代表のユーロ2008準優勝や2010年南アフリカW杯3位という形で成果を見せてきた。
次回は2000年からの10年間、辛抱強く育成計画を進めてきたドイツの成長のプロセスを、フィンケ氏の話から読み取っていきたい。クラブチームと代表における育成を考える上で、我が国にとっても参考になることは少なからずあるはずだ。
※1.ハンス・マイヤー
1942年11月3日生まれ。現役時代はDF。現役引退後、71年から指導者の道を歩み、FCトゥエンテ、ボルシアメンヘングラートバッハなどの監督を歴任。06-07年当時、1FCニュルンベルクの躍進の立役者。
※2.フェリックス・マガト
1953年7月26日生まれ。元西ドイツ代表。現役引退後、ハンブルガーSV、バイエルン・ミュンヘンなどの監督を歴任。かつてボルフスブルクでは長谷部誠、シャルケでは内田篤人らを率いて戦っていた。現在はフラム(イングランド)で監督を務める。
※3.ギー・ルー
1938年10月18日生まれ。AJオセールを44年率いてクラブの育成システムを整備、エリック・カントナ、ローラン・ブランなど数多くの選手を育てた。INF(フランス国立サッカー学院)の発展にも尽力。