自国開催のW杯ベスト16。トルシエジャパンの躍進とトルコ戦の後悔く
02年6月4-18日 日韓ワールドカップ
98年秋のフィリップ・トルシエ監督就任以降、日本代表は若い世代からのテコ入れが一気に進んだ。99年ワールドユース(ナイジェリア)準優勝、2000年シドニー五輪ベスト8、2000年アジアカップ(レバノン)優勝、2001年コンフェデレーションズカップ準優勝と着実に成果を挙げ、迎えた2002年日韓ワールドカップ本大会。日本はホームアドバンテージを最大限生かして着実に結果を残す。1次リーグは初戦・ベルギー戦を引き分けたものの、続くロシア、チュニジアに連勝してグループ1位通過。至上命題だった「自国開催でのベスト16入り」を達成する。決勝トーナメント1回戦・トルコ戦のミスは悔やまれるものの、日本サッカー界の躍進が世界に認められた貴重な舞台だった……。
99年ワールドユースで成果を残して以来、トルシエは若い世代への信頼を一気に強めた。黄金世代の中心的存在である小野伸二、稲本潤一(ともに札幌)、高原直泰(相模原)らを1世代上のユース世代である宮本恒靖(現G大阪U−13コーチ)、柳沢敦(現鹿島コーチ)、中村俊輔(横浜)らと融合させて99年秋のシドニー五輪アジア予選を突破。小野は同1次予選・フィリピン戦での右ひざ負傷でコンディションを落とし、五輪本大会から落選を余儀なくされたが、すでにイタリアで成功を収めていた中田英寿も合流して、史上最強と言われる五輪代表チームで2000年9月の五輪本大会へ挑んだ。日本は順当に勝ち上がり、8強入りを果たしたが、アメリカ戦でまさかの苦杯を喫する。それもPK戦でエース・中田英寿が外してしまったのだからどうしようもない。68年メキシコ五輪以来、32年ぶりのメダル獲得の夢はついえたが、世界レベルの相手と互角に戦う選手たちに指揮官は手ごたえを感じたことだろう。
さらに翌10月のアジアカップでは、中田が出場できなかった分、イタリア・セリエAのベネチアでプレーしていた名波浩(現磐田監督)やケガのいえた小野伸二らが参戦。サウジアラビアから4得点、ウズベキスタンから8点を叩き出すという圧倒的な強さを見せる。日本戦大敗によって電撃的な監督交代が行われ、チーム立て直しが進んだサウジとの決勝は大苦戦を強いられたが、望月重良(現相模原代表)の決勝点で1−0と勝利。トルシエは「私のオートマティズム(連動性)がピッチ上で表現された」と満足そうに語り、順調なチーム強化を喜んでいた。
だが、翌2001年3月のフランス遠征で大量5点を奪われ惨敗し、続く4月のスペイン戦(コルドバ)でも破れると、チームに暗雲が立ち込める。6月のコンフェデに向けて、トルシエはハードマークを得意とする戸田和幸(現解説者)をボランチに抜擢。負傷の中村俊輔を外して小野伸二を3−5−2の左サイドに抜擢するなど修正を図る。同大会で決勝進出を果たしたことで、指揮官はこのメンバーを軸に据えていく。中村俊輔が最終的に落選の憂き目に遭ったのは、コンフェデに出られなかったことが発端となったのだ。
トルシエは2002年大会本番直前まで選手たちの競争を煽ったが、結局、負傷の名波、肺静脈決戦塞栓症にかかった高原の招集を断念。さらには、中村俊輔を落とすという重大な決断を下した。2002年5月17日の代表発表会見に指揮官自身が「欧州視察」を理由に出席せず、木之本興三・日本サッカー協会2002年強化推進本部副本部長からの発表だったことで、指揮官への批判が高まった。
この直後、横浜の練習場で会見した中村俊輔は「目標をなくした喪失感? 今はないけど、大会が始まったら思うだろうね。僕は第三者的にサッカーを見られないタイプだから」と淡々と口にした。トルシエとの確執は指揮官就任当初からくすぶっていた問題で、本大会が近づけば近づくほど大きくなった。当時の中村俊輔は「トップ下こそ自分の本職」という考え方が根強く、トルシエに与えられたた3−5−2の左サイドに拒否反応を示していた。それを双方がきちんと話し合っていれば、まだ彼の落選はなかったかもしれない。10数年前の出来事ではあるが、当時のファンタジスタはポジションへの固定概念が強すぎた。それが悔やまれるところだ。
結局、彼が背負うはずだった10番は2001年以来、代表から遠ざかっていた中山雅史(現解説者)がつけることになった。99年から呼ばれていなかった秋田豊(現解説者)も招集され、日本代表メンバー23人は意外な部分も多かった。
それでも臨戦態勢に入るしかない。日本代表は静岡県袋井市の「葛城北の丸」に入り、報道陣をシャットアウトして調整に取り組んだ。メディアはG−JAMPSという取材拠点に詰めて1日2人の選手の話を聞くだけ。トルシエ時代はこんな情報管制が非常に多かった。それでも「自国開催のワールドカップを成功してほしい」という考えから、取材陣も最大級の協力体制を採った。大会直前には小野が急性虫垂炎を訴えたが、手術をせずに何とか済み、アクシデントを最小限に抑えて初戦・ベルギー戦を迎えられそうだった。
迎えた2002年月4日。埼玉スタジアムは蒸し暑さに包まれた。日本代表のスタメンはGK楢崎正剛(名古屋)、DF松田直樹、森岡隆三(現京都ユース監督)、中田浩二(現鹿島CRO)、右サイド・市川大祐、左サイド・小野、ボランチ・稲本、戸田、トップ下・中田英寿、2トップ・鈴木隆行(千葉)、柳沢。ベルギーには闘将・ヴィルモッツ(現代表監督)を擁する古豪。勝ち点3を簡単に取れる相手ではなかった。
前半は空中戦を仕掛けてくる相手に苦しめられた日本だが、楢崎を中心に何とか守って0−0で折り返す。そして後半、先手を取ったのはベルギーだった。エース・ヴィルモッツが芸術的オーバーヘッドで先制する。これは日本にとって大きなダメージかと思われたが、2分後に同点弾を叩き出す。その歴史的ゴールを挙げたのが、雑草FW鈴木。小野のスルーパスを受けた彼は、3人のDFをかわして苦手な右足で1点を奪ったのである。
迎えた24分、日本は待望の2点目を手に入れる。それがトルシエの寵愛を受けてきた稲本だった。柳沢とのワンツーからベルギーの大男を2人、3人と抜き去り、GKデブルーゲルをあざ笑うかのように左足シュート。2−1でリードする。この勢いならワールドカップ初勝利も現実になりそうだった。
ところがこの4分後、キャプテンマークを巻いていた森岡が負傷退場。宮本が送り出されたのだ。宮本は森岡に比べて強気なラインコントロールをするタイプ。それが裏目に出て、バンデルハイデンに背後を突かれ、2点目を奪われてしまったのだ。結局、初戦は2−2のドロー。勝ち点1を手に入れるにとどまった。
1次リーグを突破するためには、残るロシア、チュニジア戦で確実に勝利をつかむしかない。トルシエは9日の横浜国際での第2戦に照準を合わせた。森岡の復帰は叶わず、宮本がフラット3の中央に陣取ったが、松田を中心に守備陣の選手たちが「トルシエの言いなりになってマニュアル通りのラインコントロールをするのはやめよう。少しラインを下げて現実的にやろう」と話し合ったことで、引き気味の位置をキープ。これが功を奏し、守りが見違えるほど落ち着いた。右サイドに入った明神智和(G大阪)のバランス感覚のいいプレーも守備の安定に寄与した。
そうなると、問題は攻めの方になってくる。試合を決める1点を奪ったのは後半6分だった。中田浩二のアーリークロスを柳沢がダイレクトで落とし、ゴール前でフリーになった稲本が右足を豪快に振りぬく。大会2点目を挙げた稲本は派手なガッツポーズを披露。2001年に移籍したアーセナルでは出場機会が皆無に等しかった若武者の大ブレイクに、外国メディアも色めき立った。柳沢のダイレクトパスも高く評価された。もともとオフ・ザ・ボールの動きの質の高さには定評のあった彼が大舞台で歴史的1点をお膳立てしたのは、日頃の努力の賜物だろう。このゴールで日本は1−0の勝利。とうとうワールドカップ1勝目を挙げた。
1次リーグ突破のかかる第3戦・チュニジア戦は14日。大阪・長居スタジアムでのゲームだった。平日昼間の試合で気温は33度まで上昇。過酷な条件下のゲームとなった。トルシエもメンバーを大きく変えずに勝ちに行ったが、前半な思うようにチャンスを作れない。そこで後半立ち上がりと同時に絶好調男の稲本、ロシア戦でアシストを見せた柳沢を下げ、森島寛晃(現C大阪アンバサダー)と市川をダブル投入。明神をボランチに移動させ、森島を前線に置いてゴールを狙った。これが見事に的中し、開始3分後に森島がゴール。C大阪の地元・長居での彼の得点ということでスタジアムの盛り上がりは最高潮に達した。神出鬼没な彼の動きはチュニジアに大きなダメージを与え続けた。
そして試合のダメを押したのが、中田英寿だった。後半30分、市川の絶妙のクロスにドンピシャリのタイミングで飛び込み、頭で合わせたゴールは、日本の1位通過を決定づける重要な追加点となった。結局、日本は2−0で快勝。大阪・道頓堀には900人以上が飛びこむ騒ぎに発展。日本中がお祭り騒ぎになった。選手たちも16強という目標達成の安堵感に包まれていたが、大会はまだ終わったわけではなかった……。
日本の次なるステージは決勝トーナメント1回戦。18日、宮城スタジアムでのトルコ戦だった。トルコはブラジルと同じC組2位で突破してきたチーム。だが、ブラジルやドイツのような超大国ではない。日本中が「イケる」と楽観視したところがあった。こうしたムードに加え、トルシエの選手起用もチームのリズムを狂わせた。この大一番で指揮官は西澤明訓(現C大阪アンバサダー)を1トップに起用し、三都主アレサンドロ(マリンガFC)を左ウイング、中田をトップ下に置くという変則的布陣を採ったのだ。勝っている時はチームを変えないという定石を破ったばかりでなく、過去の試合でも一度も試していない形で、動向が不安視された。
そのギャンブルは案の定、裏目に出る。前半12分、中田浩二のミスパスからCKを奪われ、それをユミト・ダバラに決められてしまったのだ。三都主を前半だけで下げた後のチームもギクシャク感が拭えず、相手の強固な守備ブロックを崩せない。結局、日本は0−1で敗戦。戸田や市川らの号泣とともに自国開催のワールドカップは幕を閉じた。
共同開催のライバル・韓国が快進撃を続け、ベスト4入りしたことを考えると、日本ももっと上まで行けた可能性はあった。トルシエは4年間で若い世代を引き上げ、多彩なオプションにトライし、自分の人脈を生かしてフランスに何度も遠征するなど、日本サッカー界のレベルアップに貢献した。が、肝心のトルコ戦で采配ミスを犯してしまった。韓国の指揮官が百戦錬磨のヒディング監督で、修羅場をくぐった経験の差が出てしまった部分は少なからずあっただろう。その後悔が色濃く残る2002年大会だった。
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