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ドイツワールドカップ惨敗(2006ドイツワールドカップ)/日本代表の軌跡

2015/4/23 11:27

黄金世代の集大成はまさかの惨敗。ジーコの監督抜擢から中田英寿引退まで多くの誤算


2006年ドイツワールドカップ

 2002年日韓ワールドカップで史上初のベスト16入りを果たした日本代表。その中心選手たちが円熟期を迎える2006年ドイツ大会は、さらなる躍進が期待されていた。だが、指導経験のないジーコの代表監督抜擢、中田英寿という傑出した存在の融合の難しさなど誤算が重なり、日本は初戦・オーストラリアに衝撃的な逆転負けを喫する。そのショックが重くのしかかった選手たちは巻き返しを図ることができず、クロアチアに引き分けるのが精一杯。最終戦・ブラジル戦では1−4の完敗を喫し、1次リーグ最下位で敗退。その直後には中田が現役引退を発表するという後味の悪い幕切れになってしまった……。


 赤鬼の異名を取ったフィリップ・トルシエ監督が2002年日韓ワールドカップ16強の称号とともに日本を去り、次なる日本代表の指揮を執ったのがジーコだった。

 ジーコといえば、かつてブラジル代表でトニーニョ・セレーゾ(現鹿島監督)、ソクラテス、ファルカンとともに「黄金の中盤」を形成した偉大な選手。鹿島アントラーズの前進である住友金属に91年に加入し、常勝軍団の礎を築くと同時に、Jリーグ黎明期を力強く支えた人物で、日本サッカー界や日本人への理解は誰よりも深い。トルシエになかったカリスマ性も申し分なかった。けれども、この時点でのプロフェッショナルの指導経験は皆無に近いという重大な問題があった。

 にもかかわらず、同年7月にサッカー協会会長に就任した川淵三郎氏(現最高顧問)の「ジーコに聞いてみたら?」という鶴の一声で、田嶋幸三協会委員長(現副会長)ら協会側は後任候補をジーコへと1本化。正式契約に踏み出す。「本当にジーコでいいのか」という疑問の声は関係者からも聞こえてきたが、川淵会長と協会はジーコファミリーに日本代表に重要な4年間を託したのだ。

 ジーコジャパンは2002年10月のジャマイカ戦(東京・国立)から始動したが、新指揮官は小野伸二、稲本潤一(ともに札幌)、中村俊輔(横浜)、中田英寿の欧州組2人を中盤に並べる4−4−2を採用。傑出したタレントを好むジーコはトルシエ時代の戸田和幸(現解説者)のような選手を中盤に加えようとせず、攻撃偏重の印象が強かった。

 加えて、この時期、日本代表の海外移籍が年々増え、彼ら4人以外でも、高原直泰(相模原)、鈴木隆行(千葉)、柳沢敦(鹿島コーチ)ら主力級が続々と欧州に赴いており、簡単に代表合宿に呼べなくなった。シーズンオフの1〜2月は国内組だけで事前合宿を行ってからワールドカップ予選や親善試合にのぞむのが常だったが、結局は直前合流した欧州組を並べるだけという事態も頻発。国内組からは不満の声も漏れ聞こえてきた。

 国内組と中村俊輔、川口能活(岐阜)の欧州組2人だけで挑んだ2004年アジアカップ(中国)はMVPに輝く中村の華々しい活躍と、準々決勝・ヨルダン戦(重慶)での宮本恒靖(G大阪U−13コーチ)によるPK戦の場所変更などミラクルが立て続けに起きてアジア連覇を果たしたが、大会中には松田直樹がジーコに真っ向から意見を言って2度と招集されなくなる出来事も起きた。「国内組」と「欧州組」という二極構造を作ってしまったことは、ジーコジャパンの問題点だった。

「中田英寿」という突出した存在を指揮官が作ってしまったのも懸念材料と言われた。中田が股関節炎で離脱し、稲本も2004年6月のイングランド戦(マンチェスター)での右ひざ負傷でチームを離れた2004〜2005年は、中村俊輔と小野中心の中盤でうまく機能していた。この2人と福西崇史(現解説者)や中田浩二(鹿島CRO)、小笠原満男(鹿島)、遠藤保仁(G大阪)らがいい連携を見せていて、むしろ攻守のバランスがより取れていたと言っていい。ところが、中田が復帰した2005年3月のドイツワールドカップアジア最終予選・イラン戦(テヘラン)で中田英寿が復帰すると、ジーコはそれまでの3−5−2をやめ4−4−2の布陣へ変更。これが裏目に出て、日本はイランに1−2で苦杯を喫してしまう。これでチームに強い危機感が走ったが、6月のバーレーン戦(マナマ)で何とか立て直して、本大会切符を手に入れた。ただ、この事例に象徴される通り、ジーコはどんな形でもいいから中田英寿を起用することにこだわった。中村俊輔にしても同様だ。フェアな競争とはかけ離れた選手選考を快く思わなかった者も確かにいたはずだ。

 迎えた2006年5月。日本代表メンバー23人に巻誠一郎(熊本)が滑り込むサプライズもあったものの、選手の顔ぶれは順当だった。彼らはJヴィレッジで1次キャンプを行ってドイツ入りし、ベースキャンプ地のボンで調整を続けたが、毎日公開練習でサポーターが大挙して訪れるなど、御世辞にも集中できる環境とは言えない中でトレーニングが行われた。キャプテン・宮本は「この雰囲気はおかしい」とジーコに意見を言ったが、「自分はこのやり方でやってきたし、変えるつもりはない」と一蹴されたという。指導者になったばかりのジーコは選手の集中力を維持する術を把握しきっていなかったのかもしれない。

 そんな日本代表は6月12日の初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)直前にドイツ戦(レバークーゼン)とマルタ戦(デュッセルドルフ)の2つのテストマッチを実施。前者のドイツ戦で相手をギリギリまで追い詰め、2−2のドローに持ち込んだことで、指揮官にも選手たちにも過信が生まれてしまった。加地亮(岡山)の負傷というアクシデントも発生。田嶋強化委員長は「マッチメークに関わった人間として責任を感じる」と後からコメントしているが、そこにピークが来た日本代表は本番が近づくにつれてコンディションもチーム状態も低下していく。6月初旬は真冬のような気候だったのに、オーストラリア戦当日が信じられないほどの酷暑になったことも誤算だった。計算外のことがいくつも続いたのは事実だろう。

 そして初戦。日本はGK川口、DF坪井慶介(湘南)、宮本、中澤佑二(横浜)、右サイド・駒野友一(磐田)、左サイド・三都主アレサンドロ(マリンガFC)、ボランチ・中田英寿、福西、トップ下・中村俊輔、FW高原・柳沢の3−5−2で挑んだ。前半から相手のフィジカルの強さに苦しんだ日本だったが、前半26分に中村俊輔のクロスボールが幸運にもゴールラインを割り、1−0で試合を折り返すことに成功する。だが後半に入ると予期せぬ出来事が次々と起きる。後半11分に坪井の足がつって茂庭照幸(C大阪)との交代を余儀なくされる。その茂庭は田中誠(現磐田U−18監督)の負傷離脱によってバカンス地のハワイから急きょ、呼び寄せられた選手で、コンディションが万全とは言い難い状況だった。その茂庭を使わなければならなくなり、チームに暗雲が漂った。

 ヒディング監督率いるオーストラリアは残り15分を切ったところで凄まじいパワープレーに出た。ジーコは柳沢に代えて小野を投入。「前線でボールをキープして時間を稼いでほしい」という守備陣の思いとは裏腹に点を取りに行ってしまった。前線と守備陣の意図がズレ、意思統一がなくなったところでケイヒル(ニューヨーク・レッドブルズ)に同点弾を叩き込まれると、日本の守備は完全に崩壊する。その後、ケイヒルとアロイージに2点を奪われ、万事休す。重要な初戦を1−3で落とすという最悪のスタートを強いられた。

 こうなると、18日の第2戦・クロアチア戦(ニュルンベルク)で勝ち点3を挙げるしかない。ジーコは3バックをやめて4バックへと変更。最終ラインにケガのいえた加地を戻して、加地、中澤、宮本、三都主という並びにし、ボランチに中田英寿と福西、2列目に小笠原と中村俊輔、FWに高原と柳沢を置く4−4−2で挑んだ。が、この試合でも守りの不安定さを露呈し、日本は宮本のミスから前半21分にPKを与えてしまう。これは守護神・川口のスーパーセーブで難を逃れたが、その後も得点が奪えない。この日最大の決定機だったのは後半6分、加地のオーバーラップからのマイナスクロスに柳沢が飛び込んだ場面だったが、彼はインサイドではなくアウトサイドでシュートを蹴ってしまい、枠を外す。本人は記憶がないというが、試合後のテレビ取材で「急にボールが来たから」と発言したことが「QBK」と揶揄される事態も起き、彼自身、大いに傷ついたという。これを逃した日本は0−0で引き分けるのが精一杯。最終戦で2点差以上の勝利を収めるしか、1次リーグ突破の可能性がなくなった。

 最終戦は22日のブラジル戦(ドルトムント)。その前日練習の際、中村俊輔が大会通して原因不明の発熱と体調不良に見舞われていたことを吐露した。ジーコは最後の望みをかけて、2トップに玉田圭司(C大阪)と巻、ボランチに福西ではなく稲本を置くなど大胆なテコ入れを図ったが、中村俊輔と中田英寿だけは外さなかった。起用された側は責任を痛感したに違いないが、この采配はやはり納得できない部分が多かった。

 サッカー王国との大一番は前半34分、稲本のサイドチェンジを三都主が折り返し、玉田が豪快なドリブルから左足で一発を決めて、日本が先手を取ることに成功する。これでかすかな光明が見えてきたと思われたが、前半終了間際にロナウドに同点弾を決められる。後半はブラジルが本気を出してきて、ジュニーニョ・ベルナンブカノの無回転ミドル弾で逆転に成功。さらにジウベルト、ロナウドに追加点を奪われ、終わってみれば1−4の惨敗。日本は勝ち点1を取るのが精一杯のまま、グループ最下位でドイツを去ることになった。

 日本選手たちがサポーターに挨拶に行く傍らで、中田英寿はボルシア・ドルトムントの本拠地、シグナル・イドゥナ・パルクのピッチ上に1人、大の字になって寝転がったまま動かなかった。彼はこの日限りで現役引退することを決めていたのだ。

「あいつも辞めるって決めてたのなら、もっと俺たちの方に入ってきてくれてもよかったのにな」と宮本は残念そうに口にしたことがあったが、中田は自分の思い描いた通りにチーム全体が動いてくれないことに苛立ちを覚えたはずだ。それをみんなで話し合うような方向に持っていってくれればよかったのだが、彼はそういうタイプの人間ではなかった。このドイツ大会の中田英寿は誰よりも輝いていたからこそ、ピッチ外でのリーダーシップを発揮してくれなかったのが残念でならない。あれから数年が経過した今、彼は自身の現役ラストマッチをどう受け止めているだろうか……。

 いずれにしても、日本は黄金世代がピークを迎えた大会で結果を残せなかった。協会はその検証を徹底的にやるべきだったが、帰国直後の川淵会長の「オシムって言っちゃった」の一言から、イビチャ・オシム監督の次期監督就任に注目が行ってしまい、検証がうやむやになってしまった。そういう部分を含めて、納得いかない部分の多いジーコ体制の4年間だった。

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