Feature 特集

[本田特集・前編] 本田圭佑、孤高のエースの“10年戦争”/名古屋グランパス時代

2014/5/28 10:00



W杯優勝という大きな目標を掲げ、ザックジャパンをけん引する本田圭佑。プロ入り後10年目、27歳で迎える2度目のW杯は彼にとっても一つの集大成と言える。そこで3章に分けて本田のこれまでの軌跡を追う。前編は名古屋グランパス時代。彼は何を考え、何を目指していたのか。そこから本田圭佑の“原点”が見えてくる。

文・西川結城

真っ赤なコートに身を包んで

 2007年12月。名古屋グランパスのクラブハウス横にある駐車場で、本田圭佑は自分へのご褒美を前に嬉々として声を上げていた。

「これ、めっちゃイケてません?カッコええですよね。これ着て、向こうでも歩こうかなと思っていて」

 手にしていたのは、真紅の革のロングコート。その値段は伏せておくが、ここから戦いの舞台に出て行く自分に気合いを入れるためにも、購入したものだという。それから数カ月後、TV画面にはオランダの地で髪を金色に染めた本田が、赤いコートを羽織って颯爽と歩く姿が映し出されていた。

 日々、頭の中で思い描いていた欧州挑戦。その第一歩は華々しく、そして本田らしく派手さにも満ちた様子だった。

当時から漂っていた大物感

 名古屋市に隣接する愛知県日進市。そこに、当時本田は住んでいた。グランパスの練習場までは、車で30分足らず。2005年にプロ入り後、1年間はクラブの選手寮に入っていたが、2年目からはマンションを借りていた。

 そこでは一人暮らしではなかった。同い年の青年と、二人暮らし。その彼は、本田の身の回りの世話や、サッカー以外の仕事の調整を行っていた。20歳にして本田はすでに個人マネージャーを付けていたのだ。

 練習場にも、毎日そのマネージャーの運転でやってきた。2006年にクラブスポンサー主催の年間最優秀選手賞に若くして選出され、贈られたのは白のランドクルーザー。その目立つ大きな四駆車でクラブハウスに乗り付ける様は、すでに当時から大物感を漂わせていた。

 ただ、マネージャーを付けた理由は何もステイタスを意識した“タレントごっこ”だったわけではない。男の一人暮らしにとって、やはり家事や雑務は悩みどころの一つ。ましてやプロアスリートでもある。1分、1秒でもサッカーのことに集中するためにも、自分をサポートしてくれる存在は不可欠と、本田はその年齢時から悟っていた。

 そんな考え方や姿勢を、先輩選手たちは自然と受け入れていた。当時のグランパスには秋田豊(06年まで)や藤田俊哉、そして楢崎正剛といった日本を代表する偉大な選手たちがいた。

 彼らは一様に、本田特有の少々尖ったプロ意識を、温かくも頼もしく見守っていた。先輩選手に対して、本田はどんどん積極的に話しかけていく。話を聞くだけではない。ときには堂々と意見する場面も数多くあった。

「アイツは結構熱いし、いろいろ俺たちにうるさいことを言ってくることもある(笑)。でもあれだけ考えて言えるのは大したもの。本田にしかできないことだと思う」

 そう話していた藤田は、いまでも本田と連絡を取り合い、アドバイスを送る仲である。藤田に限らず、楢崎や秋田もいまでも当時と同様の視線を本田に投げかけている。異端、独特といった言葉で語られることが多い本田のスタンス。ただ、不思議と周囲の人間たちは、彼の哲学の良き理解者となっていった。

疑念を振り払う影の努力

 背番号24を付けて、ピッチを駆けていた当時の本田。星稜高時代から左足のキックの精度とパスセンスが売りのレフティーで、中盤のパサーとして振る舞う自分を好んでいた。

 ところが、プロ入り後はなかなか思うようなポジションでのプレーが叶わなかった。05年に名古屋の指揮を執っていたネルシーニョ監督(現・柏監督)の下では左SBでプレーしたこともあり、また06年途中に就任したフェルフォーセン監督は彼を左ウイングバックの位置に置いた。

 特にフェルフォーセンは、本田のベストな位置は中央のポジションであることは理解していたのだが、まだ若い彼に対して戦術理解力を上げるために、いろいろな役割をあえて与えていた。加えて、当時前線でプレーしていたヨンセンの高さを生かすためにも、左からの本田の好クロスはチームに不可欠な武器だった。

 いずれにしても、かつての本田はいつもタッチライン際にいた。360度の視野を確保し、攻撃を指揮する理想的なプレーをする機会は皆無に等しかった。決して、順風満帆なピッチ生活だったとは言えない。

 立場相応、年齢相応という観点から見れば、本田の強気な姿勢は早熟気味と言われてもおかしくなかった。日本代表のエースとなったいまなら、誰も文句はないだろう。当時の本田はU-23代表として活躍はしていたが、まだA代表に完全に定着したわけでもない身だった。

 そうした周囲の疑念だけを、自分の評価にしておくわけにはいかない。だからこそ本田は、陰の努力を惜しまなかった。

 自宅に帰ると、よく近所の公園に出かけた。その姿を目にした近隣の住民も多かったという。そこで彼は、走り込み、無回転キックの練習など、自分のスキルアップのために時間を割いていた。チーム練習だけでは物足りず、日々自分と向き合ってはボールを蹴っていた。

 練習場で、試合会場で、本田は常に凛とした表情を貫く。その裏側には、こうした努力があった。普段は努力をする自分を悟られないようにしていたいという。「それが自分の美学」と本人は語るが、その姿勢はグランパスで奮闘していた当時から続いていたのだった。

 昨年、スペインで本田が一人汗を流していたときに放った、この言葉。

「プロはみんな目に見えないところで努力をしているもの。努力をしていないヤツなんてプロやない。でも、具体的にどんな努力をしているかというのは、そんな簡単に見せられるようなもんやないよ。それは無様な姿を見せることなのかもしれへんし、いまみたいにこうやってキツイ格好をしている自分を見せることでもある。やっぱりどんなことでも平然とした顔でやったほうが格好良い」

 スポットライトを浴びる“表の顔”の背後に見え隠れする、サッカー選手としての無骨な生き方。本田という選手の本質が、そこにはある。

「批判の声もすごくありがたいなと」

 ここに、貴重なコメントの数々がある。

 オランダのVVVフェンロに移籍する前年の07年、本田はインタビューに答えた。翌年の2008年には北京五輪を控え、当時の日本代表監督であったイビチャ・オシム氏の目に止まり、代表にも選出され始めたころでもあった。

 あらためて、当時の本田の声を聞き返してみる。すると、若々しさや初々しさはあるものの、現在世界で戦う彼と変わらぬ思考を、そのころから抱いていたことが分かる。いまから7年前に本田が残したその言葉たちを紹介する。


――ちょうど日本代表(オシムジャパン)合宿を終えた直後です。感想は?

本田 まあ3日間だけでアピールしなきゃならない状況やったんですけど、最近のJリーグでの結果の割には、自分のプレーはできていたところがあった。ホッとしている部分はある。もちろん、“してやったり”な部分もありましたけど。今後も代表に選ばれ続けるかは決まってないですけど、あそこでプレーすることには幸せな思いがありますし、せっかくのチャンスなので思い切りやってやろうという前向きな気持ちがあった。

――プレーに対する周囲の評判もまずまずだったと聞きます。

本田 いや、どうでしょう。俺が良かったというよりは、代表はやっぱり周りの選手がうまいから、自分がすごく生きていたというだけのところもある。分かりやすく言えば、自分をカバーしてもらえていた。悪く言えば、俺はみんなをカバーする余裕はない。そういう課題は残った。グランパスに帰ってきて、そういうふうに周りをカバーしながら結果を残さないとダメだなと痛感しました。まあ、いまは代表では俺はまだ1分でも試合に出るために何をすればいいかを考える立場なので。余裕はないです。

――A代表や五輪代表、チームと、それぞれプレーの感覚は違うと。

本田 例えば、代表でプレーしているときと、グランパスでしているときの自分の物差しは分けていて。こっち(グランパス)ではやっぱりいろいろな役割が自分には要求されているので、その中でも自分個人の能力をしっかりと出さないといけない。いろいろな要求をされるということは、そのぶん、体力も消耗する。それでもポテンシャルの高さを示していくことは、非常に難しいことだと思う。自分だけのプレーをしていてはいけないわけですから。そういう部分が、チームと代表では違う。プレッシャーの掛かり方が違う。こんなんじゃ満足できないなという思いを持ちながら、チームではやっている。

――チームや代表では最近は左サイドでプレーする機会が多くなってきています。本来はトップ下や中央でのプレーを望んでいると思いますが。

本田 僕の使い方は、どの監督も最近は似てきていますよね。少しは中央でもプレーすることも出てきたけど、セフ(フェルフォーセン元名古屋監督)も基本はサイドで使うし、ソリさん(反町康治現・松本山雅監督。当時U-23日本代表監督)もサイドでしかいまのところは使わない。割りと役割はハッキリしています。もちろん自分の理想とのギャップは感じている。

 でも、根本的に言えば、自分の高校時代からの考え方が甘かったな、それで終わるので。高校のときに持っていたスタンスでは、どう考えてもここでは通用しない。そのまま上に上がっていくことはあり得ない。そこは自分の中で整理している。当然自分の理想というものが先走っていたので、それに到底追い付かないのが現状だけど、そこはね、当時の考え方はいま求められるサッカーとは完全に異なるスタンスでもあったから。いまは走るサッカーがベースとして選手に求められるもの。

 もう割り切ってね、以前の自分の考え方に未練もないし。一歩先、一歩先のレベルに到達するためには何が必要なのかを追求したい。パスの出し手だけではなくて受け手の立場になることも考えるようになっている。やっぱり、どちらもできなきゃいけない自分にならないと。そう思えるようになったのはプロになってから、そしてオシムさんに会ってからかな。変わってきていますね、自分が。

――それでも、変わらない自分の武器もあると。

本田 やはりFKだったり、アシストにしろ得点にしろ、結果を残すプレーヤーなんですよ、俺は。だから何だかんだ言っても結果が出せないと責任を感じるし、試合に負けてもそう。そういう感情は、最近はどんな試合でもチャンスに絡めているだけに、すごく確立されてきた。

 もちろん自信を持って自分のプレーをしていく、それが自負でもあり、生きがいでもあるので。走ることに関しては、まだ自信がそれほどあるわけではない。その求められている能力に必死に食らい付いていくところはいく。それとは別に、自分の持つ特長がある。それを全部含めて、サッカーなのでね。どこで、何を求められ、何を出せるか。左足のキックで結果を残す自信が俺にはあると自覚しているので、そこへの迷いはない。走ることは自分に足りないことだから、そうしたネガティブな問題はもう必死にやるだけ。迷わずにね。

 あとはFKだけでなくて、プレーの中での攻撃、ボールを触っているとき、ボールをもらうときの動きももっと見てほしい。面白いサッカー、レベルの高いサッカーを自分は目指している。それが先につながる。先を目指せるサッカーを追求してやることが、いま一番大切にしていることなんじゃないかと思う。

――周囲の声や視線が気になるのでは?

本田 周りの声を気にしないというのは嘘になる。実際に気にしているほうだと思う。周りの期待に応えるというのは、プロであるならば追求していかないといけないところ。いま、プレーしている立場として、自分は何一つ迷いはない。あとは北京五輪の最終予選でしっかり結果を残して、周囲を見返してやろうという気持ちになれている。だから批判の声もすごくありがたいなと。勝っても安心する余裕を一つも与えてくれないわけですから。僕にとっては勝つために必要な声やと思う。

 五輪は一番上の大会ではないので、良い土台にしたい。良い通過点にできれば。でもA代表でプレーするほうが憧れやし、それを誇りに思っているから。五輪は出て当たり前。なめているわけではないですけど、それくらいに思っていますよ。こんなところで転んでいるようじゃ、とは思われたくないですから。


 この翌年に行われた北京五輪で、日本は惨敗を喫してしまった。米国、ナイジェリア、オランダ相手に3連敗。本田は3試合すべて左サイドで先発したが、目立った活躍はできず。チームとともにノーインパクトのまま、大会からひっそりと姿を消した。大きな目標を口にしながらの、敗北。そして彼は、大会敗退のスケープ・ゴートの一人にされてしまった。

自己否定から新たな自分を作る

 オランダでの経験、そして北京での悔恨。それを機に、本田はさらなる自己否定をすることでこれまでの自分からの脱却を図っていった。『自己否定』。本田の場合、これは何もネガティブで暗鬱とした意味を持っているのではない。さらなる成長を求め、いまの自分から脱皮するための手段だ。彼は自らを否定することで、新たな自分像をこれまで形作ってきた。インタビューを読んでいても分かるとおり、本田のそうした考え方は、このころからすでに出来上がっていた。

 高校時代の自分を否定することで、当時監督から要求されていたサッカーを吸収し、と同時に自分の武器も前面に押し出せる選手になろうとする。本田はその後、再び自分を否定し、今度はよりゴールにこだわっていくスタンスへと様変わりしていく。

「パスの出し手だけではなくて、受け手の立場になることも考えるようになっている。やっぱり、どちらもできなきゃいけない自分にならないと」。いまの本田は紆余曲折を経て、この言葉どおりの選手になろうとしている。またそうした自分の未来像を得るキッカケの一つに、オシム氏の存在を挙げているところも非常に興味深い。

 髪は黒く、長目のヘアスタイル。風貌はいまとは似ても似つかないが、そのハートは不変――。あのころに触れた本田圭佑の思い、それは原点となっていまも彼の奥底に存在する。

【本田特集・中編】 本田圭佑、孤高のエースの“10年戦争”/南アフリカW杯後の試練

本田圭佑(ほんだ・けいすけ)
1986年6月13日生まれ、27歳。182センチ/74キロ、AB型。摂津FC→G大阪JY→星稜高→名古屋→VVVフェンロ(オランダ)→CSKAモスクワ(ロシア)を経て、今年1月にイタリアの名門ミランへ完全移籍。伝統の背番号10を背負う。日本代表では08年6月にデビューを果たし、2010年の南アフリカW杯では大会直前にセンターFWの先発に抜擢され、4試合に出場。2得点を挙げる活躍を見せ、ベスト16進出に貢献した。11年のアジア杯ではチームを優勝に導き、MVPを獲得。ブラジルW杯の最終予選でも貴重なゴールを挙げ、日本を5大会連続5回目の出場に導いた

EG 番記者取材速報

League リーグ・大会