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その名を刻んだ男たち2015 FW 32 鈴木 隆行(ジェフユナイテッド千葉)インタビュー②

2015/12/23 18:01



衝撃的だったブラジルでの経験

--実際に行ってみて、ブラジルはどうでしたか。
「本当にキツかったです。いまも思い返しますけど、自分の人生で一番大変な時期でした。ブラジルに行く前は異国の地で生活をするという苦しさをまったく理解していなかったし、心の準備もできていませんでした。何がキツかったかというと、生活面なんです。当時はパソコンもそれほど普及していませんでしたし、サッカーさえできればいいと思ってスパイクと洋服だけを持ってブラジルに行ったんです。リラックスできるようなモノが必要だとは考えもつかなかった。練習が終わってから部屋に戻ったあとは、次の日の朝まで何もすることがなくて、本当に苦痛でした」

--ポルトガル語は理解できたんですか。
「分かりませんでした。その当時、鹿島はシーズン前のキャンプをブラジルでやっていたので、ブラジルには3回ほど行ったことがあったんですが、ポルトガル語は理解できませんでした。身の回りの生活をサポートしてくれる日本人の方がいてくれたので、まだ良かったんですけど、その人がいなかったら、本当にキツかったと思います。でも、サッカーの面では良かったんですよ。チームメートとのコミュニケーションも意外と取れていました。試合に出て活躍していたということもあったので、日本人だからといってバカにされるようなことはありませんでした。ブラジルの人は本当にフレンドリーでしたよ」

--サッカーをする環境は整っていましたか。
「ホームのジーコ・サッカーセンターはかなり良い状態だったのですが、アウェイには本当にひどいところもありました。バスに何時間も揺られて行くのは当たり前ですし、試合が行われるグラウンドが正規の大きさではないこともありました。タッチラインから1m先が壁だとか、ロッカールームがなくて外で着替えるしかないとか、グラウンドに雑草が生えていたり、砂場みたいなところでやったこともありました。日本の草サッカーよりもひどい状況なんです(笑)。だから、いちいち環境を気にするようなことは次第になくなっていきました。
 それに日常生活でも衝撃的なことばかりでした。たとえば、向こうでは車を停めるときに駐車スペースがなければ、わざとぶつけて強引に駐車するんです。そうやってバンパーが壊れても、ぶつけた人も謝りません。自分もバンパーを壊されたことがあって、『これ、どうするんだ』と言っても、謝ってくれませんでした(笑)」

--そんな衝撃的なブラジルから早く帰りたいとも思っていたそうですが、帰国するタイミングを延ばしました。それはなぜですか。
「本当はリーグ戦を終えて、帰国する予定だったんです。でも、当時の3部リーグは前期と後期の2部制だったのですが、昇格の規定が決まっていませんでした。2チームが昇格するというのは決定していたのですが、リーグ戦が終わって、どこが昇格するんだって揉めて、そこからルールを決めるということになりました(笑)。ルールが決まるまで1カ月かかったんです。阿部敏之(現・名古屋経済大監督)と二人で行っていましたけど、阿部くんは鹿島でも少し試合に出ていたので、その時点で帰ることを決めました。でも、自分は最後までやり遂げたいタイプの人間だということもあって、チームが昇格を決めるまで残ることにしました。それで、1カ月後にルールが決まり、前後期の上位2チームずつ、4チームの2回戦総当たりをやったのですが、ウチのチームは2試合を残して昇格することができました」

--それでめでたく帰国ということになったんですね。「最後は会場に荷物を持って行っていたので、勝って昇格が決まった瞬間に空港に向かいました。チームメートには『なんで、日本に帰るんだよ』と止められましたけど、昇格の余韻に浸ることもなく、空港に向かいました。それほど、ブラジルの生活はキツかった。試合後はサッカーをやっていて、初めてうれしくて泣きましたよ。勝利したことではなくて、帰国できるといううれしさの涙でしたね」

そして2度目のブラジルへ

--そんな厳しい環境のブラジルから鹿島に戻ったわけですが、変化や手ごたえは感じましたか。
「帰国したとき、日本はシーズンの途中だったのですが、自分は全然変わっていないなと思いました。ブラジルの3部とはいえ結果を出したんですが、それで鹿島で通用するかというと別問題。自分ではうまくなったと思っていましたが、全然変わっていなかった。だから、本当にキツかったし、落ち込みました。どうしたらいいのかと悩んだことを、いまでも覚えています」

--では、プロでやっていけるなというきっかけはどこで、つかんだのですか。
「98年に市原(現・千葉)に期限付き移籍したときです。Jリーグで試合に出て、それなりにやれるなと思いました。鹿島では通用しないけど、ほかのクラブであればできると。そこから、なぜか分からないけど、もう1回ブラジルに行ってみようと思ったんです」

--2度目は自分から志願して行ったのですか。
「そうです。1度ブラジルに行って、すごく人間的に成長できたので、もう1回行ったら、さらに変われるかもしれないと思ったんでしょうね。サッカーの技術的なモノというよりも、人間的な成長を求めていました」

--実際に行ってみて、2度目のブラジルはどうでしたか。
「あれだけイヤだと思っていたのに来てしまったということから、向こうの自分の部屋に入ったら、震えが止まらなくなりました(笑)。でも、それくらいの勢いがないと、ブラジルに行くことはできなかったと思います。深く考えてしまうと行けない。自分はそういうふうに、自分を追い込むところがあるんです。普通の人であればやらないことを、あえてやる、やれてしまうのが自分の一番の強みなのかもしれません。何も考えずに飛び込んでいけるんです」

--そこでは手ごたえをつかみましたか。
「成長したという手ごたえはありました。高校を卒業して何も分からないままプロになって、その中で2度のブラジル留学を経験したことで、すごく変われたという実感はあります。でも、サッカーに関しては変われていなかった。99年の途中に鹿島に戻ったのですが、やっぱりなかなか試合には絡めませんでした」

̶̶00年は川崎Fに期限付き移籍をします。
「変わらないとまずい、という危機感はありました。鹿島で試合に出たいけど、このままだと試合に出られない。そんなときに川崎Fに期限付き移籍することになったのですが、そのときは2度と鹿島には戻れないという覚悟で行きました。だけど川崎Fでも途中から試合に出られなくなって…。幸運にも鹿島に戻ることができて、そこから試合に出られるようになったんですから、何が転機になるか分からないモノですね」

ベルギー戦前はゴールの予感があった

--鹿島に戻った00年の後半はJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯で15試合に出場し、7得点。ナビスコカップではニューヒーロー賞も獲得しました。そこから一気に飛躍を果たし、日本代表まで上り詰めましたが、特に02年日韓W杯での活躍が印象に残っています。
「当時はものすごくプレッシャーを感じていました。プレーに余裕がなかったと思います。最近、イナ(稲本潤一/現・札幌)に『俺はあのときプレッシャーを感じていて、ものすごく苦しかったけど、イナはどうだったの?』と聞く機会があったんです。すると、『自分をアピールできる場だし、どれだけ自分が世界で通用するかを試したかった。世界にアピールすることしか考えていなかった』という答えが返ってきて、自分とは全然考え方が違ったんだなと思いました。いまなら自分もそう思えますが、当時はそこまで考える余裕がなくて楽しめませんでした。自分ももっと楽しんでやれていれば良かったなと思いますけどね」

--日韓W杯の初戦・ベルギー戦(2△2)では印象的なゴールを決めました。日本がW杯で初めて勝ち点を獲得することに大きく貢献する得点でしたが。
「僕の中では、その試合で絶対にゴールを決められるという確信がありました。その年の代表戦で僕はずっと得点を取っていなかったのですが、ベルギー戦では得点を取るという確信がありました。それまでの自分の人生を振り返っても、得点を取るときの流れみたいなモノがあったし、大事な場面で点を取っていたので、絶対に取ると思っていました。そして案の定、ゴールが決まりました。あんな、つま先でのシュートを決めようなんて思ってはいませんでしたけどね」

--代表ではその後もさまざまな経験をされましたが、W杯などの経験は、どのような形で自身に還元されましたか。
「その後の現役生活にそれが生かされたという実感はそれほどありません。よく代表での経験が役に立つと言われますが、自分の場合はその感覚はなかったですね。たとえ代表で海外のチームと戦ったとしても、親善試合とか短期間の大会で数試合やっても、自分の力になるとは言い切れません。海外のチームに身を置いて、リーグ戦や練習を日々積み重ねることで初めて力が付いていくのだと自分は思います」

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