Feature 特集

その名を刻んだ男たち GK 15 シュナイダー 潤之介(奈良クラブ)インタビュー①

2016/1/6 17:06


Photo: © Atsusi Tokumaru

「家にいるパパがいい」と言われて

--16年間のプロ生活に区切りをつけることになりましたが、引退を決めた経緯を教えて下さい。
「直感ですね(笑)。いや、それは冗談ですけど(笑)。藤枝と天皇杯1回戦で対戦して、PKで負けたんですよ。延長まで0-0で抑えたのに、PKを1本も止められずに負けました。PKを止められずに負けるということは、その責任はすべてGKにあります。そのときに初めて(引退を)意識した。今までそんなことは考えたことがなくて、『あれ?』と思った。それに、その試合で半月板を痛めたことも引退の理由の一つ。奈良クラブでは日々練習もハードにやるので、騙し騙しやることになってしまいました。最終的な判断は沼津戦(JFLセカンドステージ第13節/0●1)。試合でアドレナリンが出れば、痛みもなくやれると考えていたけど、全然ダメで。結果的に前半は無失点で抑えられたけど、自分の理想とかけ離れ過ぎていた。鈴木啓太さんも引退会見で同じことを言っていましたよね。こんなプレーはしたくないって思った。それが最後の決め手です」

--家族には相談したのですか?
「沼津戦の前に家族会議がありました。娘が16年に小学6年生になります。結婚生活13年のうち、7年が単身赴任。娘が小学生のうちに、一度も家にいないことになってしまいます。そこで娘に『サッカー選手のパパとお家にいる普通のパパどっちがいい?』って聞いたら、即答で『お家にいるパパ』って言われました。その返答、全然準備してなくて(笑)。絶対、『Jリーガーのほうがいい』と言うと思っていたので、『そっちか!』と、正直グサッときました。そこからは、毎試合が引退試合だと思って臨んでいたんですが、沼津戦で自分の思うパフォーマンスができなくて、Jリーグ参入の可能性もついえてしまいました。可能性がなくなった時点で、(残りのリーグ戦は兼任GKコーチとして)育ててきた松本智広た。オカ(岡山一成)にも『シュナが教えなかったら、松本はここまで育った』と言われて、自分の道はGKコーチなのかなと思いました。ただ、その時点ではまだ決断していなかったんです。セカンドステージ最終節のSP京都戦で吉田智尚選手が引退セレモニーで花束をもらっていた。そのときに『あ、次、オレだ』って不意に思った。それが決断。だから、家族にも話していないんです。オカにも、引退については相談していたんだけど、詳しいことは何も話していなかった。ただ、オレがそのときにポンとオカの肩を叩いたら、察したらしくて、いきなり号泣して…。その試合には妻の家族も来ていました。吉田が家族に花束をもらっているのを見て、オレも家族に見守られて引退できると思ったんです。さらに言うと、オレは“おばあちゃん子”で、そのおばあちゃんが15年に亡くなりました。そのお香典返しもあって、SP京都戦に妻の家族が来ていました。だから、これはおばあちゃんからの伝言なのかなと思った。実は試合前のアップが終わったあとにも、なぜか涙が出ていたんです。汗かなと思ったら、『あれ? 違う、泣いてる!?』って(笑)。まだ(引退を)決めてなかったのに。試合が終わったあと、選手に声を掛けてるときも泣いていたらしいです。オレは覚えていないんですが。引退すると決めたら、長嶋茂雄さんのように『奈良クラブは永久に不滅です』と言ったり、千代の富士のように『体力の限界』と言ったり、百恵ちゃんみたいにスパイクを置いたり…、そういうのを絶対にやってやろうと思っていたのに、咄嗟に決めちゃったんです(笑)」

ーー引退するにあたり、現役生活の中で何か後悔はありましたか?
「みんなにも言われたけど、まったくなくて。小学1年生からずっとやってきて、それが終わったんだけど、何も後悔はありませんでした。それはこの2年間、奈良クラブで本当にいい思いをさせてもらったから。特に2014年に地域決勝で勝って、JFLに上がれた。あれが、人生初めての昇格でした。奈良クラブではコーチ兼任で、さらに3日連続で試合というのを1年間で3回も経験したし、人工芝で公式戦をやるのも初めて。本当に濃い期間だった。2015年はシーズン後にJFL選抜としてU-22ベトナム代表戦が決まって、『これ、引退試合じゃん』って。自然と道が決まっていった感じですね。大卒後、16年間プレーしました。JFL選抜の背番号も『16』。娘の誕生日が平成16年の9月16日。それで、オカにSP京都戦後に16回、胴上げをしてもらいました。みんなにあんな長い胴上げ見たことないって言われたけど(笑)。オレも楽しくなっちゃって、いろいろなポーズを取りながら飛んでいました(笑)」

月謝制、腹の出たオッサンが相手
--さまざまなカテゴリーでプレーしてきたシュナイダー選手ですが、いま振り返って一番思い出に残っている出来事は?
「すべてかな。ただ、やっぱり14年の地域決勝ですかね。遠く千葉での試合なのに、奈良クラブの横断幕がズラーっと並んでいるのを見て、アップをやめて、サポーターに向けて拍手しました。あれはすごかったです。それに、選手入場のときに、サポーターも一列になってスタンドに入ってきた(笑)。その行動で会場を奈良クラブのモノにしたんです。やっぱりサポーターがチームを勝利に導くんだなと。結果も、オレがPKを止めて勝って、それがあったから優勝、JFL昇格ができました。泣きながらラインダンスもしましたね。その試合は親父も見に来てくれていたんです。父は千葉に住んでいるから。終わった瞬間に走っていて、柵をジャンプで越えて、親父にガッと抱き付いた。二人で泣きながら抱き合いました」

--これまでプレーしてきたそれぞれのクラブについて。サッカー選手としてのスタートは群馬FCフォルトナでした。
「加入当初はサテライトだったから、群馬県4部(笑)。しかもプロではなく、月3万円の月謝を払って。試合はお腹の出たオッサンが相手でしたし、『オレ、何やってんだろう』と思ったのが最初です」

--そのわずか1年後、プロキャリアをスタートした鳥栖は最も長く所属したクラブですが?
「今でも、最初のJクラブが鳥栖で本当に良かったと思っています。以前の鳥栖にいた選手は、みんなそう思っていると思います。特に新人で入った選手は。そこからはい上がっていくことができましたから。豊田陽平が『鳥栖が走らないんだったら、オレは出ていく』って言ったそうじゃないですか。それだけ、昔から鳥栖のスタイルは変わっていない。特に、(松本)育夫さんが来て一気に変わったかな。副島(博志)さんも鳥栖の環境をうまく利用しながらやってくれたけど、育夫さんが来て戦う集団に変わりました。真夏の中断期間に佐世保キャンプっていうのがあったのですが、育夫さんが『90分間試合するんだから、90分間走だ!』と言って(笑)。45分を2本、ずっと走り。そりゃあ根性付きますよね(笑)。給料も安かったけど、サッカーが好きでやっていて、いまのシュナイダーの土台作りができました」

ーー試合に絡めていなかった際に、レギュラーGKが負傷して、さらに第2GKが退場になってつかんだチャンスをモノにしたと聞いています。
「そうでした。そのあと、試合に出させてもらいながらGKとして開花したのは04年です。04年は、娘が生まれた年。娘が生まれたあとに、妻に血栓ができているのが分かり、入院することになりました。それで、鳥栖で娘と二人きりの生活になったんです。『どうすんの、オレ』となったところで、チームメートの奥さんたちに、お風呂の入れ方とか、ミルクの入れ方とかを教わりました(笑)。まあ、すぐに妻のお母さんが来てくれて、『お母さんとの新婚生活』が始まったんですが…(笑)。あの時期は、妻のところにもお見舞いに行きながらだったので、体はボロボロになっていました。4日間くらいは練習を休ませてもらって、試合の2日前くらいから練習に参加した。これは試合には出ないだろうなと思ったんですが、育夫さんに『使うから。オマエしかいないから』と言われて。精神的にも身体的にもクタクタな状態で試合に出ました。佐賀陸での水戸戦(J2第37節/0△0)です。それが、すごくリラックスして試合に挑めて、自然とピッチ全体を見られた。観客席も見て、『今日はあの人が来てるんだな』と思いながら余裕を持ってプレーできました。ピッチにいる、選手全員の動きが見えた。GKだから当たり前なんですがね。じゃあ、ここはこう動かして、こうやればいいということに気づいて『TVゲームみたいじゃん!』と思えた。コマを動かして守ればいいんだって、そこで、コーチングを覚えました。それは、キツい状態でも使ってくれた育夫さんのおかげ。2日練習しただけの選手は、普通は使わないですから。サッカーがさらに分かるようになったきっかけです。育夫さんにはその年、『一番成長したのはシュナイダーだ』と言ってもらって、その次の年はキャプテンになって、また次は選手会長と一歩ずつ階段を進ませてもらいました。そのとき、さらに成長するためにほかのチームを経験したくなったんです。だから04年は大きなポイントでした」

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