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その名を刻んだ男たち GK 15 シュナイダー 潤之介(奈良クラブ)インタビュー②

2016/1/6 17:05


Photo: © Atsusi Tokumaru

仙台時代も、すべてがポジティブ
--07年には、J1でのプレーを目指して仙台へ移籍しました。
「仙台がウチのおばあちゃんの出身地で、あとはあの素晴らしいサポーターの前でやりたいというのもあって、当時J2の仙台への移籍を決めました。『シュナイダーはJ1のチームからオファーが来ているのにほかのチームに行った』と報道されたんですけど、『どう書いてもいい』って伝えちゃったから、真実ではなくてもまあしょうがないなと思いながら、移籍しました」

--仙台での2年間はいかがでしたか?
「憧れの観客の前でやれましたが、正直、しんどかったです。自分の勘違いもありました。お金もようやくもらえるようになって、どこかハングリーさが欠けていたんです。オカとの“劇場"でサポーターとコミュニケーションを取れたのは楽しかったですが…。07年は開幕からレギュラーを取れて、開幕から12戦無敗と良いスタートを切れたのに、脱臼骨折をしてしまいました。そのおかげで林卓人が入ってきて、彼もぐんぐん成長したんですけどね。いまやJのチャンピオンチームの広島で正GKになって、代表にも入っていました。オレも彼のプレーから教わることもあったから、すべてポジティブに捉えています。仙台の2年があって本当に良かったです。特に仙台の2年目、08年は1試合も出場できなかったけど、これを経験できたのがとても良かったです。体をイチから作り直して、この年はすごく大きかったんです。だからこそ、次の年に鳥取で全試合に出場できました。仙台の2年目のときは、早い段階でその年でクビになると言われていました。だからこそ、集中して体を鍛え直しました。途中で育夫さんから『鳥栖に戻って来る気はあるか?』って言われて、本当にすごくうれしくて、『引退するなら鳥栖でしたいです』と話して、育夫さんも涙声になっていた。岸さん(岸野靖之監督)も『戻ってこい』と言ってくれたんだけど、クラブとしては『出て行った選手はいらない』となって、『まあ、そりゃそうだよな』と。鳥栖に戻っていたら、J1は経験できたかもしれないけど、いまの生活はなかったかもしれない。いまの人生が最高だと思っているので、(J1でできなかったことは)仕方ないです」

--09年には当時JFLの鳥取に移籍することになりましたが?
「仙台のような大きなクラブから一気に、JFL。でも、このときは本当に毎日の練習が楽しくて、練習が終わってから早く明日になんないかなって思えました。チームの団結力もありました。このときはレギュラー争いから始まって、チームも昇格するという大きな目標がありました。そのためにチーム最年長としてどうやってまとめるかと、団結力を意識するようになりました」

--鳥取を退団し、横浜FCへの移籍を決めた経緯は?
「鳥取では、年間で3回しか家族のいる群馬に帰れなかった。これはちょっと、厳しいなと。2週間、期間をもらってチームを探しました。そこでオファーがなかったら来季も鳥取でやることになっていましたが、そこでまさかの岸さんから電話があって、即答で『行きます』と伝えました。そのときはカズさん(三浦知良)がいることも頭になかったんですが、返事して、『横浜だ、やった』って思ってたら、カズさんいるじゃん、超緊張するじゃんって思いました(笑)。アツさん(三浦淳宏)もいましたしね」

--横浜FCでの思い出は?
「(12年にJ1昇格)プレーオフまで行けたことですかね。プレーオフが始まった年に経験できました。準決勝で千葉に0-4…まあそれは置いておいて。横浜FCでも、11年に1試合も出られなかったときに自分の体と向き合えて、さらにベンチでは何をしなきゃいけないかをずっと考えて、サブでもチームを鼓舞し続けました。『(レギュラーだった)関(憲太郎/現・仙台)、頑張れ』と思い続けました。『お前が活躍すれば、自然とオレの評価も上がる』と思えていた。いつでも出られる準備はして、体も鍛えてました。それで12年の京都戦の前に、田北さん(田北雄気GKコーチ)から『次、お前で行くから』と言われて。実際に、京都戦で活躍できて、そこから一気に先発になって、チームも最下位から4位まで上昇した。やっぱりあの年は忘れられません。田原(豊/現・鹿児島)とジャンボ(大久保哲哉)の2トップも強力でした。オレとホリ(堀之内聖/現・浦和スタッフ)、ハチ(八角剛史/現・北九州)のセンターラインで、本当に負ける気がしなかった。素さん(山口素弘監督)のサッカーは楽しかったですし。13年にはキャプテンを務めた。でも契約満了になって、最初に声を掛けてくれた奈良クラブに移籍することになりました」

好きなことをやっているから、全然平気

--奈良での2年間について。GKコーチも兼任していましたが、奈良クラブの環境は?
「15年の途中からは、スポンサーさんが持っている古民家に住みました。ほんの気持ちで家賃1万円を払って、管理人代わりで。ただ管理していないところだったから、雑草ボーボーで玄関も分からないくらい。天井も穴が空いていたりして…。離れのプレハブに住んだんですが、そこでもチームメートにいらない家具を譲ってもらいつつ、過ごしました。朝6時に起きて、グラウンドに行って、スタッフのミーティングに参加していました。選手兼GKコーチというのも初めての経験で、午前にトップの練習が終わってから、午後は育成のGKコーチ。これが最高の経験でした。夜は21時くらいに家に着いて、シャワーを浴びて、自分で飯を作って、23時くらいにようやくサッカーを見ながらゆっくりできる。洗濯ももちろん自分。それで次の日も6時に起きないといけないから、24時には寝る。濃い生活を毎日していた。コンディション作りは大変でしたが、好きなことやっているから、全然平気でした」

--コーチとして選手を教える楽しさについては?
「目に見えて選手がうまくなってくるのが分かるのがうれしいです。トップチームの二人のGKも、ガラッと変わりました。最終的には松本なんかはJFLで試合に出られるまでに育ってくれて、みんなからも『変わったね』と言ってもらえました」

--選手としても奈良ではJFL昇格という大きな成果を得ました。
「14年は選手としても関西リーグで優勝して、自分もベストイレブンに入って、地域決勝でも優勝して、三冠ですからね。ガンバとウチだけ(笑)」

--今季はJリーグ昇格を目指してのシーズンでしたが?
「奈良クラブをJに上げて、引退できたらカッコ良かったですけど。サッカー選手は、『自分が移籍したあとに、チームが強くならないでほしい』と考えるものだと思います。でも、奈良クラブは絶対にJに上がってほしい、強くなってほしいと思う。今までもチーム愛は持ってきて、すべてのチームが大好きですが、本当にそう願えたのは初めてでした。オレ的には宿題を残したかなと。あとはお前たちで上がってこいと。(JFLの)ベストイレブンにも入れたし」

--久しぶりのJFL挑戦でしたが、今季を振り返って。
「09年に経験したJFLよりも、確実にレベルが上がっていました。2ステージ制にして盛り上がっていたし、観客動員も多かった。チームのレベルも高いし、ソニー仙台なんてどうやって勝てばいいか分からないくらいで」

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