――02年には優秀新人賞も獲得されています。
「優秀新人賞は3人いました。坪井(慶介/浦和、現・湘南)、俺、(小林)大悟(東京V、現・ニューイングランド・レボリューション/米国)。新人王は坪井でしたけど、新人賞を獲れるなんて思いもしなかった。それも原さんが使ってくれて、いろいろなチームメートもそうですし、良い先輩も多くて。それにしても、戸田さん(戸田光洋/FC東京、現・岡山コーチ)とナオ(石川直宏/FC東京)は最高のパートナーですよ。彼らがいなかったらどうなっていたかと思うぐらいの」
――“出し手“の選手としては欠かせない阿吽の呼吸というか。
「本当にそう。見なくても分かりますからね。走ってくれているというのが分かる。あれはもう、絶大な信頼がありました。お互いにリスペクトして、(向こうはボールが)来るということを分かっていますし、(僕は彼らが)走るということも分かっていますし、最高のパートナーですね」
――そんな宮沢選手の糸を引くような長短のパスについて、原監督が「キックフォームが誰よりも綺麗だ」とどこかで言っていたのを覚えています。
「ありがたいですよね。『キックフォームが綺麗』というのはたくさんの方に言われるんですけど、これは本当にうれしいんです。パスで生きてきた人間として、そのフォームが綺麗というのは、なかなかうれしいことですよ。もちろんパスの質が一番でしょうし、その質を求めてきたわけですけれど、そのフォームが綺麗というのはうれしいなあ」
移籍の決断。大分での経験
――07年、そんな時を過ごしたFC東京を離れることになります。どのような思いだったのでしょう。
「(残って)東京でやるか、大分に移籍するかというところで、タイミング的にもチャレンジしたほうがいいんじゃないかなと決断しました。東京を離れるのは寂しかったですし、いろいろなことを考えながらチャレンジしようと大分に行ったわけですが、(07年は)なかなかうまくいかずに(08年に)期限付き移籍で行った仙台でも2試合しか出られませんでした。仙台に行っている間には(大分が)ナビスコカップを獲って、リーグも4位になっていて、じゃあ『(自分が戻った)今年(09年)は』というところで、14連敗してしまって…。難しいシーズンになってしまいましたね」
――その2年間というのは、どのような時間だったのでしょうか。
「移籍というのは本当に難しいことだと思うんですよね。いろいろなパワーを使いますし、フィットするのも難しい。いろいろな選手を見てきましたが、(移籍)1年目で活躍できるのは本当にすごい選手だと思う。ポテンシャルはもちろん、キャラクターもあるでしょうし、初めて(の移籍)で『こんなに難しいものか…』というのはありました。もちろん僕の力不足もありますが、1年1年が勝負の中で、監督に求められている部分も含めてできるだけ早くチームになじんでいかないと、というのは当時とても勉強になりました。ただ、素晴らしい選手や良くしていただいた指導者の方もたくさんいたし、そういう経験があるからこそ、これからどういう立場になったとしても、こちら側からも、選手側の気持ちも分かる。それが、財産です」
――それにしてもFC東京のナビスコカップ優勝をスタンドから見ていたり、大分のナビスコカップ初優勝時に仙台にいたり…。
「そういう巡り合わせなんでしょうね(苦笑)。うれしい気持ちと、そこに立てなかった悔しさと、それをエネルギーに変えて、『見返してやろう』という気持ちでいました。もちろんうれしい気持ちもありましたけど、頑張る源でしたよ。だからこそ、(09年に)大分に帰って来て、本当に良い経験ができたと思えます。シャムスカさんの最初は出られなかったですけど、けが人やらがたくさん出て、試合に出られましたし、(ランコ・)ポポヴィッチ監督が来て攻撃的になって、自分の特徴が生かせるようにはなりました。チームとして結果は出なかったのですが、大分で一緒にやったメンバーが、いまや日本を代表する選手ですからね。東(慶悟/FC東京)、(西川)周作(浦和)、森重(真人/FC東京)、清武(弘嗣/ハノーファー)、家長(昭博/大宮)も(金崎)夢生(15年鹿島)もいたし、メンバーを見たらすごいですよ」
――個々としてもチームとしても「これは伸びるな」という感触でしたか。
「全員ポテンシャルが高かった。だから、あのままの大分であれば良かったですけどね。ああいう残念な形(J2降格と未曾有の経営危機)で(彼らは)大分を出ざるを得ない状況になってしまったので仕方ないですけれど。(選手としては)本当にうれしいこと。一緒にやっていた若い選手たちが、いまや日本を背負って立つ選手ばかりですからね。だから『何であのとき(J2に)落ちたんだろうなあ…』と不思議でしょうがない。サッカーは本当に難しいと思いました」
――それだけに10年以降は、相当な覚悟だったのではないのでしょうか。
「もちろん、そういう思いでした。(09年に)覚悟を持って大分に帰ってきたわけですけど、(10年は)残念な形で主力選手が大量に抜け、(11年は)平均年齢22歳の中で30代は自分一人。それだけに『もうやるしかない』という思いにもなりました。田坂さんが来てくれて、キャプテンに任命してくれて、『30歳一人、やるしかねえ』と。“新しいトリニータ”というところで大変なことはたくさんありましたけど、違った意味で成長させてもらったと思います。ピッチ内でも、ピッチ外のところでも、クラブのためにやれることはやりました」
――当時の風景は覚えていますか。
「ミーティングで、(青野浩志)社長から(経営危機を)知らされました。そんなことがあるのか…と。どうなってしまうんだろうという不安もありましたけど、そんなことが起きるのか、という驚きがとにかく大きかった。なかなかないことですよ。ただ、ビラ配り、募金活動、(スポンサーへの)挨拶回り…いろいろなことをしましたが、それを支えてくださっている大分県の人たちがいますからね。それがすごいことです。行政、スポンサーの方々、トリニータサポ−ター、大分県民の皆さんが常にいてくれました。募金で1億円を超えるなんて、なかなかできないでしょう。それを達成できてしまう大分県がすごいですよね。地域密着の見本となるクラブだと、僕は思います」
―― 一つの転機でもあったのですね。
「そこがやっぱり大きかったですね。トリニータの状況、チームで一番上の30歳、(初めての)キャプテンという立場。何より、人として成長できたことが大きかったと思います。もちろん、それまでも気を遣って目を配っていたつもりですが、より責任感は増したと思いますし、若い選手、スタッフの方々、大分県のことなど、いろいろなことをいろいろな角度から見るようになったところはありました」
――試合に出られない時期もありながら、主将として必死に支えていた姿は大分サポーターが誰よりも知っていると思います。
「もちろん悔しいし、試合に出たい気持ちもありましたが、そんなことを言っていられる状況ではありませんでした。何とかチームが勝たないといけない状況だったので、本当にいろいろなことに気を配りながら、自分のことはもちろんやりながら、いろいろな選手と話しながら、チームが勝つためにはどうしたらいいのかということを常に考えていました。自分を押し殺しても、チームのために、クラブのためにという強い思いがありました」
――そんな情況下で、12年のJ1昇格プレーオフを勝ち抜き、J1昇格をつかみます。もともとは参加条件を満たしておらず、参加条件をクリアしたときには「何としてでも勝たなくてはいけない」という状況だったんですよね(※)。
「街頭での募金活動をやりながら、お祭りのイベントでも募金活動をしたり、大分駅周辺でポスターやチラシを配ったりしました。すごく多くのお金が集まって、(J1昇格)ライセンスが取れることになって。それで自動昇格を狙ったんですけど、できずに6位。本当に全部がギリギリのところで、J1昇格プレーオフは『もう勝つしかない』という状況だった。あれは決して『6位で失うモノはない』という戦いではなかったんですよね。行政の方、スポンサーの方、大分県民、サポーターの皆さんの思いをすべてひっさげて戦ったわけですから。ただの6位じゃない。失うモノはとても大きい。あれが選手の気持ちを後押ししたんじゃないかと思います。それで(J1昇格プレーオフ決勝の)国立に行ったら、大分側のゴール裏もぎっしりですから。感動しました」
※09年に経営危機に陥った大分は、Jリーグの「公式試合安定開催基 金」から5億円の融資を受けていた。12年時点での融資残額は約3億円 で、これを完済して債務超過を解消しなければ、J1に昇格できないという条 件が課されていた。そこでクラブは「J1昇格支援金」を募集し、この募金1 億円強と地元経済界、大分県からの支出それぞれ1億円を合わせて3億円 を工面し完済、J1昇格プレーオフの参加権を得た。大分は、準決勝で京都 を4-0、決勝で千葉を1-0で破り、J1昇格を決めた。