もう一度Jに戻ってくる
自身のLINEやFacebookを開くと、そこには100件以上のメッセージがある。徳島からの帰りの道中、一度も携帯電話を手から離していないと気が付いたのは、岐阜に着いてからのことだった。「みんなオレの思いを知ってくれていたので、びっくりしてくれましたね」
J2第6節・徳島戦(3〇1)の43分。初先発のピッチに立っていた鈴木ブルーノは、流れるようなパスワークの終着点となる。J初出場にして初ゴール――。その報せに、彼のことを知る誰もが、まるで自分のことのように喜んでいた。
ブラジル生まれの鈴木ブルーノは、6歳のときに家族と来日。日本でサッカーを始め、中学卒業と同時に所属したG大阪ユースでは同期の大塚翔平(川崎F)や年下の宇佐美貴史(G大阪)らとともに活躍した。しかし、09年にプロ入りした新潟では出番を得られない日々。当時JFLの町田や、シンガポール・Sリーグの新潟Sへの期限付き移籍をはさみ、二度にわたって新潟に戻ってきたが、Jリーグでの出場機会は一度も訪れなかった。そして13年、新潟Sに完全移籍。このときに秘めた目標こそ「もう一度Jに戻ってくる」というモノだった。
絶対、日本でもやれる
二度目のシンガポール。ボコボコのピッチではボールが転がらず、「スパイクがカタカタいう」ほどの固いグラウンドでプレーしたこともある。そんな環境でも、彼は持ち前の明るさとハングリー精神を持って毎日のように居残りシュート練習に励んだ。食事は自炊をしていたが、時には「体のため」と現地では高級な日本食にもお金をかけた。ホーム・ユナイテッド(シンガポール)に移籍した2年目以降は、助っ人外国籍選手として加入したため、給与は日本の下部リーグとそれほど変わらなかったが、そんなことはどうでもよかった。「もう一度日本でやりたい。その一心でやっていた」。
果たして鈴木ブルーノは3年目の昨季、二度のハットトリックを含む公式戦18得点を量産する。リーグのレベルは「J2のちょっと下ぐらい」だが、CBに外国籍枠の2枠が使われることも珍しくないため、欧州人DFなど“助っ人”との対峙がほとんど。その中での18得点は、彼に大きな自信を与えた。そして、「絶対、日本でもやれると思った」ときに実現した岐阜への練習参加。そこでラモス監督に「お前は絶対チームを手伝ってくれる」と肩を叩かれた彼は「チャンスをつかみに来た」と、4度目のJリーグに帰ってきた。
東南アジアのリーグに身を移し、再びJの舞台に戻ってくることは決して簡単ではない。そして日本で出番を得て活躍した選手となると、ほとんど類を見ない。だからこそ、夢をあきらめずに努力を結実させた彼のエネルギーは力強い。「試合に出られず何も分からなかった新潟のときはヒヨコやったけど、いまやったらやれる」。彼の“アンサー”は下部リーグの裾野の広がりを感じさせるとともに、同じ境遇で戦う者に希望を与えている。
ここまでチーム最多タイの3得点を奪い、6年越しのJデビューから4戦3発。決して偶然ではないこの結果も、まだまだ通過点に過ぎない。(村本 裕太)