『「いつか京都でやりたいな」という気持ちが生まれていた』
―京都に加入したのが今季の開幕1週間前。電撃的な移籍でした。
「京都の強化部にいる鈴木慎吾さんが、僕の父の浦和ジュニアユースのときの元教え子なんです。それで、韓国(FCソウル)でプレーしていたときから興味は持っていただいていたんです。去年の12月に僕の代理人をとおして『1年後になってもいいから来てほしい』というお話をいただきました。そのときはまだ中国(江蘇蘇寧)で契約が1年残っていたし、移籍という考えはまったくなかったんですけど。でも、チームのオーナーが変わって、“爆買い”と言われる状態になって(笑)。前年からいたサミールというブラジルW杯のクロアチア代表に加えて、移籍金60億円以上というアレックス・テイシェイラ、チェルシーの元ブラジル代表ラミレス、同じく元ブラジル代表のジョー、それからアジア枠でトレント・セインズベリーという豪州代表DFを連れてきて、それで『(僕とは)契約を解除したい』となったんです。僕のところに契約解除の話が来たのが2月5日ぐらい。開幕前にスペインでキャンプを終えて、ちょうど北京に到着したときですよ(笑)。それで北京に残っていたんですけど、誰もクラブの人間が会いに来ない。一度日本に帰ってから2月9日にホームタウンの南京に戻って、翌日に練習に行ったら自分のロッカーがなくなっているんです。そのときは正直、『自分はどうなるんだろう?』という感じでしたね。日本でも来てほしいと言ってくれるチームがあるとは思っていたし、自信もありましたけど、タイミングが…。J2は開幕1週間前だし、J1はACLも始まっていましたから。海外ももう行けない。『どうしよう?』というのが正直な気持ちでした。それで契約解除のサインをして日本に帰ったときに、京都が『ぜひ来てほしい』と言ってくれて。ほかのJクラブからも話はあったんですけど、去年の12月から『いつか京都でやりたいな』という気持ちも生まれていたので」
―心に響いた口説き文句などがあったんですか?
「いや、僕は基本的に口説かれないですから(笑)。人の言葉だけで動くことはないし、自分ですべて決めてしまう。代理人もそれを分かってくれているし、僕が決めたことを強くサポートしてくれます。僕は常に一つのポイントを見ていて、それは日本代表なんです」
―京都でプレーすれば日本代表への道が拓けると感じたということですか?
「はい。でもたとえばJ1の下位のチームで自分一人だけが活躍して日本代表に呼ばれても、僕はイヤなんです。23歳のときにレッズからFCソウルに移籍したんですけど、レッズにいたころは先輩方に甘えっぱなしでした。Jリーグ、天皇杯、ACL…。全部優勝しているけど、すべて先輩たちが頑張ってくれた結果。自分はその中で1試合とか2試合に出ていただけ。韓国では自分が勝たせなければいけない立場になったんですけど、そんな中でもほかの外国籍選手がすごく助けてくれました。プレーの波が激しかった僕に、『それではダメだ』と誰よりも厳しく言ってくれたんです。本気で説教してくれる。そういう環境で自分が成長できて、大きな舞台での試合に使ってもらえるようになりました。13年のACL決勝・広州恒大戦
※で活躍ができたのも、それまで力になってくれた人たちのおかげです。京都の人たちと話をしたときに、『J1に行く』という強い思いを感じたし、僕が描く未来とも重なったんですね。京都には堀米勇輝、内田恭兵、和田篤紀など、若くて力を持っている選手がたくさんいる。今度は僕が、その選手たちを成長させられるようなプレーヤーになりたいと思ったんです。そういう選手たちを燻らせるのではなくて、しっかり表舞台に出られるような選手にしてあげたい。彼らと大きい舞台でサッカーができる環境を作ることができれば、それが僕としては一番うれしいんです」
※FCソウルがホームの第1戦は2-2、アウェイの第2戦は1-1。アウェイゴール数で広州恒大が優勝。エスクデロは2試合で1得点2アシストの活躍を見せた。
―若い選手たちに良い影響を与え、エスクデロ選手も一緒に成長して、京都を大きな舞台で戦えるクラブにしたいと?
「それが京都を選んだ一番の理由です。お金とかチームの強さ、知名度よりも、そのクラブがどういうことを考えていて、自分をどれだけ評価してくれるかのほうが大事なんです。ただ毎年、断固として目標にするのは、チームが優勝すること。どんなに弱いチームでも、始まる前は同じスタートラインにいるわけですから。京都はいまJ2で優勝を狙える状態です。それは、可能性がゼロになるまでは絶対にあきらめないです」
―韓国でプレーしていた13年に結婚し、昨年はお子さんも生まれました。日本に戻るという決断の裏には、「家族のために」という気持ちもあったのでは?
「もちろん、奥さんや子供と過ごしたいというのは、父親なら誰でもそうだと思います。ただ、サッカー選手というのは長くはできない。FCソウル時代に、元コロンビア代表のマウリシオ・モリーナという選手から『そのときにオファーを逃したら、同じオファーは一生来ないぞ』と教えられたことがあるんです。モリーナは10回以上移籍を経験している。その選手に『居心地が良さそうとか、ラクになるからという理由で妥協すれば、100%後悔する』と言われて。ロシアへの移籍話もあったんですけど、僕は正直、ロシアでもアフリカでもどこでも良かった。家族とは離ればなれになるけど、すべてはいつか家族がラクに暮らせるためだと思えば、全然苦にならないですから」
『韓国移籍で初めて周りのことが見えるようになった』
―日本に復帰してから、古巣である浦和サポーターの前でまだプレーをしていません。それは今後の楽しみの一つ?
「レッズを離れてから、一度もプレーしていないです。でも、アルゼンチン人だったら『お前はボカ・ジュニアーズのサポーター』とか、生まれたときに自分の名前と同じタイミングで決められる。僕は3歳からでしたけど、記憶があるときからずっとレッズのサポーター。心の奥底にあるクラブがレッズだから、もしそのチームと対戦してゴールなんか決めたら喜べない(笑)。試合はやりたくないです。単なるクラブではなくて、僕のすべてなんですよ、レッズは」
―浦和への思いは一生変わらない?
「そうですね。でも、またレッズでサッカーがしたいとかではないんです。いちサポーターなんですよ。そこら辺のおじさんと一緒。大好きなんです。レッズの試合はどこにいても観ているし、結果も気になる。『何でこの選手を出さないんだよ』とか、意見したりする(笑)。そういう存在なんです」
―そんな浦和から12年に海外へ飛び出したときは、どういう心境だったのですか?
「自分ははい上がったというよりは、淡々とプロになれたんです。05年に16歳でプロになったことで満足感が生まれてしまった。でも、そのときの『自分はすごい選手になれる』という気持ちはただの過信で、結果として何一つ残せていなかった。ワシントンやロブソン・ポンテ、エジミウソン、マルシオ・リシャルデス…。素晴らしい選手がチームにいたのに、彼らから何一つ学ぼうとしていませんでした。誰かのことをうまいと思ったり、誰かを褒めたりすることができなかったんです。それで12年になって、自分もレッズに長くいる中でいろいろなものが溜まっていて…。同じ年数プレーしていても、ずっと試合に出ている選手がいるのに、僕は毎年15試合から20試合だけ。けがもよくする。そういう選手をずっとレッズは抱えてくれていたんです。そういう中で、自分が良くない行動を2、3回繰り返してしまった。それでもレッズは『どこか期限付き移籍先を探そう』と提案してくれました。そのころにFCソウルからオファーをもらったんです。アジア枠で選手を獲りたいということで20人ぐらい候補がいたんですけど、当時のチェ・ヨンス監督(現・江蘇蘇寧監督)が以前キャンプで僕のことを見たのを覚えてくれていて、『この選手が欲しい』と迷わずオファーを出してくれた。クラブからは『国内のほうがいい』と勧められていましたが、そのときにいろいろと考えて、『国内だと、結局は何も変わらないんだろうな』と思い、『FCソウルに行きます』と返事をしました」
―初めて経験した海外でのプロ生活が、変わるきっかけを与えてくれた?
「そのときのFCソウルには、モンテネグロ代表のデヤン(・ダミヤノヴィッチ)や、モリーナ、アディ(アジウソン)という外国籍選手がいて、あの3人に出会えたから自分の本当のプレースタイルに気付くことができたんです。そこで初めて周りのことが見えるようになって、『こんなにすごい選手がいるんだ』とイヤになるぐらい思い知らされました」
―先ほどの話にあった、厳しい言葉を掛けられたことが良かった?
「そうなんです。それまでは何か言われると『何で俺が言われないといけないの?』と反発していたんですけど、それがまったくなくなった。素直に受け入れられるようになりました。逆に僕が彼らに意見を言っても怒られるわけではない。すぐに『ゴメン』と言ってくる。京都でもそうですけど、僕は決めつけた物言いをしないようにしています。若い選手に『お前はこうしたほうがいい』とか。それは言った側の傲慢さに過ぎないと思う。思ったことはぶつけるけど、どうするかはその人の自由。京都だと、タム(田村)や(永島)悠史が何かを言ってきても、『何でお前らに言われないといけないの?』とはならない。言われたのなら、僕が考えないといけないんです。なぜ、そういうことを言われたのか。それが自分の成長にもつながる。それは、経験がない選手だからとか10年目の選手だからとかは関係ない。ピッチに入ればみんな同じ。韓国でそこに気付くことができたんです」
―FCソウルでは加入した12年に主力に上り詰め、Kリーグ優勝に貢献。翌年にはACLのファイナリストになりました。一番印象に残っているのは?
「やっぱりACLのファイナルですね。ホームでやった1stレグの日、道が混んでいて試合開始直前にスタジアムに到着したんです。19時キックオフで、普通17時20分とかに到着するのが、18時40分ぐらいになった。ユニフォームチェックも選手がいないのにやっていて、バスの中でテーピングを巻いたりして(笑)。そういう事件があったんです。それで、10分ぐらいアップしただけで試合に入ったんですけど、開始10分ぐらいで僕が先制点を決めて、みんなが『ウォー!』となった。観客も6万人近く入っていましたけど、あの試合は、出ていた選手、スタッフ、観客が、本当に一瞬で一つになれました。『サッカーってこんな瞬間を作れるんだ』と思えた試合でした」
―当時の広州恒大の監督、マルチェロ・リッピ氏が「アジア最高の選手」とエスクデロ選手を絶賛したのが、そのファイナルでしたよね?
「あれはうれしかったです。直接褒める人ではないと聞いていたのに、名指しで褒めてくれて。本当にうれしかった」
②へ続く