『苦労したとはまったく思っていない』
―プロになる夢もあった清原選手は次のクラブを探します。金沢に移籍が決まったきっかけは?
「活動停止が決まって、(中口雅史)監督がみんなの代理人のような感じでクラブを探してくれました。条件の交渉もしてくれて。その中に金沢がありました。実は、リーグ戦の途中でも他クラブに練習参加してもいいということになっていたのですが、そうすると週末の試合には出られません。僕は試合に出たかったので、シーズンが終わってから練習参加しようと思っていました。ただ、最終節の前にけがしてしまい、練習参加できなくなって。骨折したので、大阪の病院で入院していました(苦笑)」
―“就活”ができなくなった、と。二重のショックですね。
「はい。ただ、金沢的には、けがをせずに他クラブに練習参加していたら、ほかのクラブに行くだろうと思っていたようで。けがをしたことで、『獲れるんじゃないか』と思ってくれたらしいです。その結果、金沢には練習参加できなかったのですが、加入が決まりました」
―金沢での1年目は、SAGAWA時代の前年に続いてJFLベストイレブンにもなっています。SAGAWAと比べて環境の変化などもあったと思いますが?
「SAGAWAは練習場も決まっていますし、保養所みたいな感じで筋トレルームやプールもありました。ただ、金沢はクラブハウスもなくて練習場も(日によって)バラバラでしたね」
―そして、翌年からJ3が始まって、金沢は初代J3王者に輝きました。
「すごく印象に残る1年でした。主将になった年でもありましたから」
―そして昨季、ついにJ2での戦いを経験されました。金沢に加入後、JFL、J3、J2と、トントン拍子で来て、J2の舞台は悲願だったと思います。
「やっとたどり着いたな、と(笑)」
―昨季は清原選手の存在がサッカー界に大きく知れわたった年でした。大きな1年になったのでは?
「昨季の前半(序盤戦に6連勝するなど、金沢は一時首位に立つほどの快進撃を見せた)に関しては、自分たちでも何か分からない力が働いていると思いながらプレーしていました。金沢には、周りから見たら苦労人と言われる選手が多い。J2に懸ける思いがプラスに働いたのが昨季だったと思います」
―ちなみに、周りから「苦労人」と呼ばれることについて、ご自身ではどう思っていますか?
「僕の中では苦労したとはまったく思っていないです。そういう過程があったからこそいまがあります。サッカー人生、そのときそのときで自分の中で後悔しないようにと思っているので、あのままSAGAWAでやっていても、自分の中では成功だったと思うし、金沢でずっとやっていても、『良いサッカー人生だったな』と思えます。今季C大阪に移籍して、試合に出られなかったときは、周りの人から見れば、『移籍は失敗だったのでは?』と思われても仕方がない状況でしたけど、自分が選んだ道なので、出られなかったとしても、それはそれで成功かなと思っていました。だから、ここまでの歩みで苦労したとは思わないですね」
―C大阪からオファーがあったとき、激しい競争があることも覚悟はしていました?
「そうですね。ただ、どのチームでも先発争いはあります。結果を出している選手は使われるし、そうでない選手は使われない。それはどこでプレーしていても一緒だと思います」
―移籍の決断に関しては?
「『(チャンスが)来た』という感じだったので、すぐに決めました」
―J2第15節・岡山戦(2○1)から先発となり、その時期からチームの試合内容も少しずつ変化していくわけですが、その前の第14節・横浜FC戦(1△1)で加入後初出場を果たしました。数分間のみの出場でしたが、試合後の結果にこだわるコメントが印象的でした。
「ここまでずっと出られなくて、どうやったらこれからも試合に使ってもらえるかを考えたとき、やはり結果が一番分かりやすい。誰もが納得することですから。特にセレッソのようなビッグクラブの一員として試合に出た以上は、短い時間でも結果を出すことが大事だと思っていたので、そういう思いから自然に出た言葉だったと思います」
―清原選手が試合に絡み出してから、次第にチーム全体のつながりも良くなっていきました。大熊監督も、「キヨ(清原)の存在で全体がうまく連動し始めた」と話していましたが、意識していたことは?
「距離感ですね。スタンドから見ていて、後ろからつなぐときにディフェンスラインと前線の選手の距離が少し遠い気がして。前が張り付いてしまうこともあって、まずその距離感を縮めたいと思っていました。そして、そこからしっかりペナルティーエリアの中に入って、仕事ができる(結果を出せる)場所に走っていくことも意識しました」
③へつづく