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[特集・鳥栖]INTERVIEWMF 10 キム ミヌ(鳥栖)/インタビュー①

2016/12/9 6:00


Photo: Atsushi Tokumaru
サガン鳥栖は私のホームです

正直、最初は鳥栖の環境にびっくりした。でもやるしかなかった

――7年前、鳥栖に来たときのことを覚えていますか?

「来たときはまだ若かった。まあ、いまも若いんですけど(笑)、自分がやらないといけないという気持ちがすごく強かった。結果を残さないといけないという気持ちも強かった。そのストレスもあったし、1年目は練習もきつかったし、すべてが難しかったです」

――PSV(オランダ)の入団テストに落ちて鳥栖に来たといういきさつですよね?

「チャンスがあったから(テストを受けに)行きました。僕が悪いんですけど、大学(韓国・延世大)の監督に言わずに受けに行ったのはいまも申し訳なかったと思っています。ただ、次にいつそういうチャンスが来るのか分からなかったので、少しでも若いうちに行っておきたいなという気持ちがありました。向こうからテストを受けてみないかという話を持ってきてくれたので受けに行ったんですけど、結局落ちてしまって、チームがない状況でした。そのときに鳥栖に声をかけてもらいました。ユンさん(ユン・ジョンファン当時ヘッドコーチ)には感謝しています」

――鳥栖に最初に来たとき、どういう印象を持ちましたか?

「チームの選手が大きく入れ替わったときだったので、みんなが気持ちを新たにという感じだったと思います。でも、クラブハウスがなかったので、難しい環境だなという印象は強かったです。『こういうところでやっていくんだ』という感じで。逆に大学のときはもっとラクだったし、芝はこっちのほうが良いんですけど、それ以外の環境は大学のほうが良かったのではないかと思えるくらい鳥栖の環境は良くなかった。ただ、それがあったからこそ、いまの鳥栖があると思うし、そういう時期を知っている選手は少なくなりましたけど、そのときを知っている選手たちはいま苦しいときに、クラブハウスがなかった時期や練習がきつかったときのことを思い出しながらやっているのではないかと思います。僕は実際にそう思ってプレーしていました。良い経験だったと思っています。ユニフォームも大学のときのほうがもらえる枚数が多かったんですよ。鳥栖は練習着で半袖が2枚、長袖が2枚、長袖のスウェットが2枚もらえましたけど、大学のときのほうが多くもらえていました(笑)。正直、最初はびっくりしました。でもやるしかなかったし、初めての経験でしたけど、小学生のときから寮生活は経験していたので、そこまで大きな問題ではなかったです」

――鳥栖のサッカースタイルにはどういう印象を持ちましたか?

「来るまではまったく知らなかったです。来たときは練習がすごくきつかったし、すごく走らされました。『このチームは走れないといけないんだ』というふうな感じでした。ユンさんが選手たちに厳しく指示を出していたので、そういうイメージが強いです」

――ユン・ジョンファン氏の存在はどういったものでしたか?

「ユンさん自身が日本でプレーしていた経験からアドバイスもしてもらったので、すごく助けられました。一緒に練習してみても勉強するところは多かった。当時、ユンさんの存在は自分にとって大きかったです」

――来日1年目はコンディションなど多くの問題があったそうですが?

「1年目は一番難しかったし、きつかったです。自分としてもコンディションがどうしてそうなってしまったのか分からなかった。グラウンドを1周も走れなかったし、そのくらいきつかった。中断期間があっても、(韓国のロンドン)五輪代表の合宿があって、そこでの練習や試合もあったし、鳥栖に帰ってきたら3部練習になっていたので(苦笑)。何日か休んではいましたけど、3部練習をやるにはコンディションを一気に上げないといけなかった。でも、それくらいから少しずつ、コンディションが良くなっていったのかなと思います」

――韓国に帰りたいと思ったことはありませんでしたか?

「帰りたいという気持ちよりも、『どうして自分は走れないんだ?』と思っていました。それまでそんなことはなかったのに、『どうしていまの自分は走れないんだ?』と考えながら、部屋で一人泣いたこともありました。極端な話、『この年齢で引退しないといけないのか』と思ったこともありました。でも、いま振り返ってみると、そういう経験を若いうちにできたことが自分にとっては良かったと思っています」

――来日当初はこれだけ長く鳥栖でプレーすると思っていましたか?
「思わなかったです。海外でやってみたい気持ちはあったし、鳥栖で数年プレーしたあとは違うチームで一度プレーしてみたいなと思ったことは正直ありました。ただ、鳥栖で1年プレーしたあと、ずっと鳥栖で、鳥栖で、鳥栖で、というふうに流れができていたので、1年ごとにしっかり積み重ねながらやっていくうちに、自分自身も鳥栖に対しての愛着が強くなりました」

――鳥栖での生活が長くなるにつれて、気持ちの面でもゆとりが出てきましたか?

「鳥栖の街に帰ってくるとすごくリラックスした気持ちになれます。自分にとってそういう街になっています。韓国から帰って来たときや、韓国代表の試合から鳥栖に戻ってくるとリラックスできます。代表に選ばれても実家に帰れるわけではないし、代表のチームとして行動するので、国のためにやらなければならないというプレッシャー、緊張感がすごくあります。だから、決してリラックスはできないです。でも、やはり鳥栖に戻ってくるとすごくリラックスできますね」

韓国にいるときに日本語が出てしまうこともあった

――すっかり流ちょうになりましたが、日本語はどうやって勉強したのですか?

「1年目のときはソンヘさん(ヨ・ソンヘ/元鳥栖)もそうでしたけど、本を買って、まずはひらがなとカタカナを勉強しました。中学生のときに1年間、日本語の授業があって勉強したことはあったんですけど、だいぶ時間も経っていたので覚えていなかったです(笑)。まずはひらがなとカタカナを覚えて、それから単語を一つ覚えたら次の日の練習でほかの選手に使って、その繰り返しをやっていました。そのころは(池田)圭さんが寮にいたし、ナオさん(藤田直之/現神戸)が隣の部屋だったので、ナオさんの部屋に行って教えてもらっていました。ナオさんがダメだったら圭さんのところに行ったりしていましたね(笑)。一度、ソンヘさんと圭さんの3人でスタバで勉強したこともあります。自分の中ではすごく頑張って勉強していたと思います。1年目、2年目のときは部屋に単語も貼ったりしながら勉強していました。韓国人の選手も多かったので、助かりましたけど、逆に日本語は覚えにくかったですね(笑)。いつも一緒にいるし、韓国語でしゃべれてしまうので(笑)」

――日本語の読み書きもだいぶできるようになっているのですか?

「パッと言われたら少し考えないと書けないんですけど、見たらすぐ分かるくらいにはなっています。でも、歌はカラオケだとテロップが速く過ぎていってしまうので無理ですね。見ながら歌おうとするんですけど、難しかったです。日本人選手たちと一緒に行ったとき、挑戦してみたんですけど、難しかった。歌詞を覚えていたら歌えるんですけど、知らない歌を見ながら歌おうとしたら無理ですね」

――日本語と韓国語が入り混じるようなことはないのですか?

「たまにあります。韓国にいるときに日本語が出てしまうこともありました。10年に韓国のA代表に初めて呼ばれたとき、練習でポゼッションゲームをやったんです。そのときに私が『スルー(! ※)』と言ったら、練習後にパク・チソン選手が来て、『日本語を使ったらみんなが分からないだろ』と冗談で言われました」
※スルーは韓国では通じない

――日本語イジりみたいなものはあるのですか?

「そういうのはないですけど、Jリーグの中で順位が下のほうにいると、そのことを言われることはあります。昨季、(J1・2nd第9節で)神戸に1-7で負けたあと、その次の日に韓国代表に招集されて、チョン・ウヨン(当時神戸)と一緒に行ったんですけど、チームメートや監督にも言われました。『どうやったら1-7で負けられるの?』みたいな感じで(笑)」

②へつづく…

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