メキシコ五輪の銅メダルに貢献
岡野俊一郎氏の経歴は実に多岐にわたる。
選手時代は技巧派FWであり、のちに日本代表で監督・コーチの間柄となる故・長沼健氏(元日本サッカー協会会長)も「初めて見た高校時代から、岡野は本当にうまい選手だった」と回想している。
大学卒業と同時に選手を引退した岡野氏はドイツ語に堪能だったため、1960年にデットマール・クラマー氏が来日すると通訳となり、クラマー氏から全幅の信頼を得る。その結果、クラマー氏は東京五輪を目指す日本代表の監督・コーチとしてまだ30代前半だった長沼氏と岡野氏を協会に推薦する。親分肌の長沼氏と理論派の岡野氏のコンビは絶妙で、日本代表は東京五輪でアルゼンチンを破り、メキシコ五輪では銅メダルを獲得した。
裏方・家業でも活躍
現場を離れてからの岡野氏は日本オリンピック委員会(JOC)専務理事としてJOC改革を推進。また、国際オリンピック委員会(IOC)委員として長野冬季五輪の招致などを手掛ける。さらに、1998年に日本サッカー協会会長に就任すると2002年の日韓W杯開催も成功させた。
一方で、岡野氏は実家である東京・上野の和菓子店『岡埜栄泉』の経営にも携わり、商店街の町内会活動まで熱心に行ったという。
筆者が初めて岡野氏と会話したのはメキシコ五輪前年の1967年だから、ちょうど50年前のことになる。日本代表コーチだった岡野氏は、無名の中学生が投げかける不躾な質問にも丁寧に受け答えしてくれたし、顔まで覚えていてくださった。サッカーを愛する者に対する、そういった優しい心遣いがある方だったのだ。マイナー競技だったサッカーの人気が1960年代に高まったのは、岡野氏や監督だった長沼氏のそうしたお人柄があったからでもあろう。
海外サッカーの伝道師として
岡野氏を語る上で、当時、日本のファンが海外サッカーの映像を見る唯一の機会だった『三菱ダイヤモンド・サッカー』(東京12チャンネル=現・テレビ東京)の解説者としての顔に触れないわけにはいかない。
海外サッカーについて何の知識も持たない視聴者に向けて解説をするのは、現在の解説者とは比べられないほど難しい仕事だったはずだが、岡野氏の豊富な知識と下町育ちらしい洒脱な会話術を通じて、視聴者は自然と海外サッカーに引き込まれていった。
この番組を見た多くの少年が海外サッカーに憧れてサッカーに取り組むようになり、子供たちに技術的なサッカーを教えようと考える指導者も確実に増えていった。1970年代には日本代表が弱体化してサッカー人気が衰えた時期もあったが、そんな中でも岡野氏の解説を聞いて海外サッカーに親しんだ少年たちは着実に育っており、1980年代に入って日本選手のレベルは急激に上がり、そして、それがJリーグの成功につながった。
日本サッカーが現在のように発展したのは、岡野氏が解説者としてまいた種が結実したからだったと言っても過言ではないだろう。心からご冥福をお祈りしたい。(後藤 健生)