写真:東京23FC
[インタビュー] その名を刻んだ男たち DF 17 土屋 征夫(東京23FC)人のために。ずっとそうやってきた(サッカー新聞エルゴラ金・土曜号) #東京23FC pic.twitter.com/fnTKI7pCFe
— サッカー新聞エルゴラッソ (@EG_spy) January 9, 2020
人のために。
ずっとそうやってきた
高校3年間、サッカーを辞めていたという異色の経歴をもち、
ブラジルでプロ生活をスタートさせた土屋征夫が、
昨季10月に引退を表明した。
V川崎(当時)で練習生からプロ契約を勝ち取ってから23年。
圧倒的な跳躍力や、90分間を戦い抜く精神力を前面に出して
45歳までプレーしたバウル(愛称)の、
紆余曲折のサッカー人生を振り返る。
自身のサッカー観、人生訓まで、話は多岐にわたった。
聞き手: 田中 直希 取材日: 12月18日(水)
あのころのヴェルディに
入って良かった
―今回は、Jリーグでの21年間を中心に、り返っていただこうと思います。97年、4年間のブラジル留学から帰国して、V川崎(当時)の門をたたきます。
「練習生で入ったので、ただ食らいついて行くだけの最初の数カ月でした。あのチームに入ってよかったと、いまになって強く思います。サッカーのことはもちろん、例えば耐えることなんかも学びました。だって、自分より何段階も上のレベルの人たちばかりで、ベテランも若手も、全員がうまい。『なんだよ』なんて思う隙間もなかった。自分はただ練習して、うまくなるしかなかったんです。毎日、『すぐクビになるんだ』と思いながらプレーしていました。だから、本当にキツかったです。当時飯尾(一慶)とか平本(一樹)が高校1年生で、サテライトで一緒にトレーニングしていたんですよ。Jリーグに入れたのに、なんで高校生と土のグラウンドで練習しているんだろう、って思いながら…。
サテライトの中でもレベルは下のほうだったので、うまいところを見せようなんて思わなかったし、ただ自分のできることをやり続けた。そうしたら半年後にトップへ上げてくれたんです」
―まさに、這い上がったんですね…。
「カズさんがいて、テツさん(柱谷哲二)、北澤(豪)さん、ゾノさん(前園真聖)、(石川)康さん、高木(琢也)さん…。すごいメンツだった。会話なんかできないし、練習も別個。同じチームでプレーしながら『あの人たちと練習してみたいな』という感情もあったくらいで。そのときサテライトを指導していたのが、ケツさん(川勝良一氏)と森(栄次氏、浦和レディース監督)さん。ケツさんは技術の高い選手を好むタイプ。でも、トップに上がるときに『お前のその姿勢を見てきたから』って言ってもらえて、涙が出そうになりました。当時の自分にとっては本当に怖い人だったけれど(苦笑)、そんな優しい言葉を掛けてくれました」
―そこからトップの試合にも出場し始めます。
「でも、最初の年はリーグ戦4試合に出たくらい。2年目になっても同じ感じで、契約条件もあまり変わらず…。2年目のスタートもサテライトからで、トップの紅白戦にも出られない。そんなとき、コーチの森さんがずっと付き合ってくれた。真っ暗な中でも一緒にボールを蹴ってくれました。トップの練習に参加したときに、全体練習の2時間まったくプレーさせてもらえなくて、そのあとに森さんが付き合ってくれて練習してくれたことも。そういうコーチの存在がなかったら、本当にキツかったと思います。そりゃあいま、全体練習が終わったあとに若手が練習したいと言えば、付き合いますよね…」
―ではそのお二人のことは…。
「ケツさんと森さんは、“育ての親”です」
神戸は“CBバウル”を
育ててくれた
―そして神戸に移籍されます。
「神戸は、“バウル”というCBを育ててくれた場所。当時の監督だったケツさんを含めて、チームメイトや周りに育てられました。今でも、あのときの神戸の選手とは仲がいいです。吉村公示、海本慶治、長谷部(茂利)くん、布部(陽功)くん、北本(久仁衛)…。長谷部くんは3歳上なんだけど、すごく良くしてくれました。チームの一体感はすごかった。でも、それがないと(力が弱くて)勝てないチームでした。そんな中で6年間、自分をグイグイ伸ばしてくれました。実はあのころ、ビッグチームから移籍話もあったけれど、『神戸で代表選手になりたい』と断りました。それは本心でした」
―当時は財政状況も芳しくなかったと聞きます。
「だから一体感がないと戦えなかった。一丸となっていても勝てない試合もありました。でも、そうやって一つになることは本当に大事なこと。今でもその思いは変わりません。常に人のため、チームのために走る選手と一緒にやりたい。指導者としても、そういう選手を集めたいし、気持ちをもってやってほしい。その中で、自分の力を出してほしい。正解不正解ではなく、それが自分に合っていて、好きなんですよね。『アイツのために頑張ろう、走ろう』っていうことが」
―05年には、柏へ移籍されます。
「降格させてしまった、というのが一番の思いです…。柏は、サポーターの力がすごかった。あのスタンドとの距離が狭い日立台は、サポーターの声でガラッと試合の雰囲気が変わります。選手に対しても、悪いときは悪いと言ってもらえるし、良い時は本当に盛り上げてくれます。声援で震えましたからね。甲府時代、柏に試合をしに行ったときも練習場によくいたおばちゃんが声を掛けてくれたり。サポーターの印象が
強いです」
―柏の元チームメイトとの“会”があるとか。
「毎年1月、『柏会』と言ってミョウ(明神智和)、薩さん(薩川了洋)やトレーナーとか、あのころ柏でプレーした選手と会ってサッカーして、ご飯を食べる会をやっています。本当に仲が良かった。当時は若くていい選手も多くて、(中澤)聡太と(永田)充とパンゾー(小林祐三)、ドゥー(近藤直也)、タニ(大谷秀和)、(矢野)貴章、チュンソン(李忠成)、タマ(玉田圭司)も……。だからこそ、J2に落としてしまったことが残念」
―06年は、大宮でプレーされました。
「大宮にも仲のいい選手がたくさんいました。波戸(康広)、サク(桜井直人)、(小林)慶行、藤本主税、サエ(佐伯直哉)、久永(辰徳)。楽しかったはずなんだけど…。そう、大宮近辺で家を探しているときに同い年の奥ちゃん(奥野誠一郎)にふじみ野市を紹介されて、そこに住みました。家族で暮らす人の多い地域で、当時子どもも小学校1年生だったから『すごくいいじゃん』と。選手もこの辺に住んでいるのかな、と思ったら…。誰もそのあたりに住んでいなかった(苦笑)。当時の志木グランドからすると、帰る方向がみんなと真逆! どこのチームに行っても、みんなとつるんでご飯を食べに行ってコミュニケーションをとるんですけどね。それができなったんです」
―サッカーのほうは…。
「守備的なサッカーだったけど、みんな個人戦術をもっている選手たち。個人で考えを共有しながらサッカーができて、面白かった。うまい選手が多かったので、まず後ろから見ていて面白いですよね。特に(小林)大悟は本当に見ていて面白い選手。走力はなくとも両足が使えて、止める蹴るの技術があるから、相手を外せる」
フッキのキックオフゴール
―そして07年、J2降格となってしまった古巣の東京V(当時はラモス瑠偉監督)に移籍します。
「いい選手が集まって、“J2銀河系”なんて言われて。開幕5戦で4勝1分といい出だしで、最初はシーズン全勝できるかも、みたいな感じだったのに、そのあと7連敗してしまったんです。何をやっても勝てない状況になった。ハットさん(服部年宏)、大野敏隆もいた。それでもうまくいかないのが、サッカーなのかもしれないですね。もちろん、監督も3バックにしてみたりいろいろしましたが…。相手はみんなヴェルディを敵視してやってくる。その中でも我慢して戦い、みんなでJ1復帰を果たすことができました。最後は感動でした。あの年、得点王になったフッキはすごかったけれど、最終節を前にして出場停止になってしまったんです。そこで出てきたのが自分にとって弟分の船越優蔵で、その試合でなんと2点を決めてしまったんですよ! ある意味、“持っている”選手だった」
―少し触れられましたが、フッキの活躍はすさまじかった覚えがあります。
「あの年の夏ごろ、フッキが西が丘で山形を相手に右サイドからとんでもないミドルシュートを入れたことがありました。相手の監督が樋口靖洋さんで、決められたあとにベンチの前で引っくり返っていましたからね(笑)。フッキはノッているときは、どこからでもシュートが入るんですよ。1回、水曜日にやった練習試合で大学生を相手に先制点を奪われたしまったことがあって。ヤバい、っていう雰囲気になったんですけど、フッキが『ボールを貸せ!』というふうに、キックオフされたボールをワンステップでシュートして、それがものすごい軌道とスピードで飛んで入った…。俺ら点をとられていたDFは『サンキュー、サンキュー。1-1!』とか言ってね(笑)」
ケツさんの給料を自分に…
―昇格するも1年で降格。スポンサーも離れてクラブの
消滅危機がありました。
「J2に落ちてしまったあと、J1のクラブからオファーをもらっていました。ヴェルディもつぶれてしまいそうなくらいだったから、オファーに応えようという気持ちにもなっていたんです。そこで聞いたのが、『監督になるケツさんが、自分の給料の額を俺などにスライドさせてくれた』と…。J1でプレーしたいけれどケツさんは本当に尊敬している存在だし、それでケツさんと一緒に昇格したいという気持ちになったんです。だから、ヴェルディに残りました。当時、クラブは本当にお金がなかった。それでも、うまい選手もいたし、まあふざけてもいたけれど(笑)、チームワークも良くて1年目はJ2で5位になりました。当時、J1昇格プレーオフの制度がないのもあって昇格できず…。よく覚えているのが、あのケツさんが08年の終わり、昇格の可能性がなくなった試合後のロッカーでみんなに対して『ここまでよく戦った』と褒めてくれたんです。褒めることなんてほとんどなかった、あのケツさんが! それが印象に残っています」
―11年、昇格を期待されましたが。
「ケツさんの2年目はね、CBでコンビを組んでいたカンペー(富澤清太郎)がケガしてしまったんです。それに、ボランチの(柴崎)晃誠が川崎Fに行ったのもあってケツさんのプランが崩れた。普通の人が見たら、晃誠の良さはあまり分からない。目立つプレーヤーでもないけれど、マジですごい選手。技術が高くてボールを取られないし、両足で蹴られて、ボールをつけたらなんとかしてくれた。そのボランチにはチビ(飯尾一慶)、(高橋)祥平、(和田)拓也、それにカンペーもコンバートされたりしたけれど、なかなかうまくいかなかった。あのときヴェルディにいたメンバー、いまもみんな活躍しているからすごいですよね。深津(康太)も(小林)祐希も、阿部(拓馬)、拓也、祥平、梶川(諒太)、シマ(島川俊郎)…」
―深津選手は、「いまでもバウルさんのような選手になりたい。近づけるようにやっている」と話していました。
「深津は、ヘディングではほとんど負けない。大丈夫?っていうくらいすごい勢いでヘディングしていく。俺も若いときはあんな感じだったかなって。そういうところは、似ているのかもしれませんね」
37歳にして号泣した日
―その川勝監督も、3年目の途中に退任されました。
「俺とチビ、あのときは泣きましたね。退任した日、ケツさんが帰ろうとして駐車場に向かうのを見つけて俺とチビで行って…。涙が止まりませんでした。それからグラウンドに戻って、みんなに話したんです。号泣しながら、『ケツさんが辞めたけれど、俺は辞めことはイヤだけど、辞めて良かったと思うヤツもいると思う。良かったと思っているヤツは、いまの3倍も4倍もやってくれ』って。あのとき37歳だったけど、ボロ泣き。それくらい、俺はケツさんのことが好きだったんです。怖いけれど、人間味がすごくある。初めて日本で指導してくれたのがケツさん。プロ生活を25年くらいやっている中で、10年くらいケツさんが関わっています。本当は優しいところ、グラウンドでは厳しいところ……いろいろな部分を知っています」
40歳での大ケガ
―東京Vから甲府に移籍したのが13年です。
「甲府には、本当に行って良かったと思っています。それまで大きなチームや都市ばかりでプレーしていました。甲府というチームで、初めて学ぶものもたくさんあった。練習場を転々としたこと、サポーターと距離が近くて地域の皆さんがヴァンフォーレのことが本当に好きなこと…。街に行けばよく話しかけられましたね」
―甲府では、大きなケガもありました。
「2カ月で3回、手術しました。あのとき、40歳になる年齢。そこで右の半月板と左の前十字という膝の大けがをしたのに、佐久間悟GMをはじめヴァンフォーレの人たちが『まだやろう』と言ってくれました。けがをしたのが2月中旬で、その年はプレーできない。そんな40歳になる俺を残そうとは、自分でも思いません。それでも、『一緒に復活しよう』と言ってくれました。本当にうれしかった。周りのみんなも協力してくれて。Jリーグ通算500試合出場もかかっていたから、40歳のおじさんがなんとかリハビリを頑張りました(笑)」
―負傷したのが14年、そして15年に復活します。
「あの時、ヴァンフォーレの皆さんが協力してくれたおかげで、そのあと5年も楽しいサッカーを続けることができたんです。感謝しかありませんよ」
初めてケガ以外で
試合に出られない経験
―J1でのプレーも続きましたが、17年はリーグ戦に出られない日々が待っていました。
「43歳になる年だったけれど、試合に出たくてしょうがなかった。初めてケガ以外の理由で試合に出られなくなったんです。そのとき、自分はサッカーが好きなんだなと、あらためて思いました。試合に出ないからって、誰かに対して何を思うとかはありません。出ない選手は残るか、移籍するか。それは選手として当然の選択です。人と人は合う、合わないもあります。移籍して出ていく選手って、『なんだよ』って文句を言う場合もあります。監督の好み、などもあると思いますけど、間違いなく実力の部分もありますから」
絶対に移籍先は
自分で決めないといけない
―長くプレーできる選手は、自分に矢印が向いているとよく聞きます。周りのせいにしない。自分が何をしなければいけないかを常に考えている、と。
「それはすごく思いますね。よく移籍するときに相談されます。『どっちのクラブがいいですかね?』って。そこでいつも言うのは、『最後に決めるのは自分だよ』と。人に話を聞いてもらいたいだけなのに、『あの人に言われたからな…』ってのちのち話に出てきます。それって、卑怯。だから『そのクラブで知っていることは伝えるけれど、絶対に最後は自分で決めろよ』と言います。『代理人に言われたから行ったので』って、何回聞いた話か。代理人にもいろいろいますけど、絶対に進路は自分で決めないといけない」
―話が脱線しました。そして17年のシーズン途中、京都へと移籍しました。
「それまで相手としてプレーしてきた闘莉王と、京都で一緒にプレーすることになりました。監督は布部くん。闘莉王はFWでプレーしていて…、Jリーグ通算100点以上を決めているんですよね。DFなのに、本当にすごいこと。その100ゴールの日が、娘が生まれた日で。ゆりかごダンスをしてくれました。闘莉王とは今でも会います。たまに連絡が来て、『いまどこにいるの?東京にいるよ!』って。
―なぜ、行くクラブが京都だったのでしょう。
「実はその時に、羽中田昌さんが監督をしていた東京23FCに誘われていたんです。『カテゴリーとか関係ない。どこでもいいから試合がしたいです』と伝えたら、『来てくれるなら、とんでもないこと。本当に来てほしい』って。自分としては、行こうとしていました。そう考えているときに京都が話をくれたんです。羽中田さんに『実は京都から話があるんです』と電話したら、『それなら絶対に行ったほうがいい』って」
―シーズン途中に移籍したのは初めてでした。京都に期限付き移籍されます。
「俺は自分からコミュニケーションをとっていくタイプ。その部分が、まだまだだった部分はあります。結局、よく話したのはトゥー(闘莉王)とかビツ(石櫃洋祐)とか、セル(エスクデロ競飛王)ぐらいで。いつもなら若い選手とご飯を食べに行ったりしてコミュニケーションをとっていくんですが、4カ月だと難しかった」
―普段の練習から100%でやり続ける姿に感銘を受けるチームメイトは多いです。もちろん、京都でともにプレーした選手からも聞きました。
「でも、ダメなときもあります。自分は100%でやらないと気がすまないのに、年齢には勝てないときがありました。京都でプレーした17年、練習後に若手と1対1をやったんですけど、あればダメ…。週末の試合のときに疲れてしまって。そこからの悪循環もあったんです。ただ、やってしまうんですよね……(苦笑)」
初めての弱音。
東京23FCという選択
―京都との契約が終わったあと、関東リーグ1部所属の東京23FCに移籍されます。
「実はJ2、J3のクラブからも誘いがありました。6人目の子どもが生まれたあとで、嫁さんに相談したら『大丈夫、やりたいところまでやりなよ』ということで地方に行く気持ちになっていました。オフになり京都から帰ってきて、生まれて2週間くらいの赤ちゃんの世話を一緒にしていた時に…。長男もまだ大学に行っていなかったから、子どもが家に6人いる。2週間くらい家で過ごしていたときに嫁がつらそうにしていて、『本当に
大丈夫?』って問いかけたんです」
―大学生から乳児まで6人ものお子さんを育てるんで
すもんね…。
「はい。そうしたら、『無理。一人じゃ厳しい。近くにいてほしい』と。嫁は小学校のときの同級生。それまで、どこでプレーするときにも支えてくれましたが、初めてそう言われて。だから自分の中で、辞めるか、東京近くでプレーするかの2択になったんです。そこで(吉田)正樹(現東京23FC強化部長/東京V時代にチームメイト)が『ちょっと遠いですけど、どうですか? 僕毎日迎えに行きますんで』と言ってくれて、それで加入を決めました」
―東京23FCは、関東1部リーグ。初めて国内でJリーグ以外のチームに入ったことになります。
「甲府などよりも小さいクラブ。コンクリートのところで試合前のウォーミングアップをするとか、さすがに経験したくないこともやりました。みんな、サッカーのほかに仕事を抱えていて、練習後にダッシュでバックを抱えて『失礼します!』って言って練習場を出ていく。このクラブに入って良かったことは、視野が広がったことです。サッカーが好きで、こういう環境でプレーしている選手がいることを間近で見られた。朝7時から9時まで練習して、10時から19時くらいまで仕事して…。彼らは本当にすごい」
―ということは、何時起きなんですか?
「4時50分起きです。正樹なんて、4時20分とかに起きていますからね。一緒に東京の西から東の江戸川区まで通っています」
45歳、引退決意の理由
―2年間プレーされ、19年途中に引退を決意されました。その理由は。
「環境も大きく変わった中で、練習から100%でできなくなりました。周りの人は『いいっすよ。そこまでやらなくても』と言ってくれます。でも、自分の中で納得できないことが出てきました。うまい選手ではないから、そういう(全力でやり続ける)ことを考えてこれまでやってきた。でも、それができなくなってきたんです。(引退の)理由は、そこにあります」
―サッカー選手をやる上で一番大切にしてきたことが、
できなくなったと。
「自分が何を長けているか、長けていないかをしっかり理解することが本当に大事なこと。大きな目標をもつこともいいとは思います。そこに行き着くために自分の考えをもっているのならばいいけれど、そうでないと…。自分が認めたくなくても、認めなくてはならないことはある。認めて、自分に吸収して、サッカーをやるのと、意地を張ってサッカーをするのとでは周りの反応も違うでしょう。自分のプライドが邪魔をすることはあると思います。でも自分は、うまくない。下手って言われたら『下手です』とはっきり言えます。だから、最初にヴェルディへ入ったことが良かった。到底、追い付くことができない選手ばかりでしたから。いくらブラジルで4年やっていても、帰ってきたら自分が一番下手。それを感じられるチームに行けたことがすごく良かったと思います」
―ご自身の長所は、ボールを取り切るところ、最後の笛が鳴るまで戦えること、それにコミュニケーションをとれることだと思うのですが、それらはご自身で獲得していったものですか。
「ほかの選手に負けたくなかったのは、そういった部分です。ほかの人より長けていないことはあったけれど、目標に行き着くまでの考えはもっていました。哲さん(柱谷哲二)がボールを奪うプレーなどを見て、自分は吸収していった。それに、やはり自分が周りに負けたくないものというものもありました。最初の時点ではみんなに負けていた。そこから、周りを追い越していこうと考えていました。技術は敵わないけれど、そのぶん違う自分の長所を作るためにたくさん練習しました。森さんとヴェルディグランドにあった砂場で1対1をずっとやったあのころのことを、自分は苦に思っていなかった。どのレベルにあるかを分かって受け入れていたから、やるしかない、頑張るしかない、という気持ちになりました」
選手には自分の強みを
知ってほしい
―指導者人生をすでにスタートさせています。20年は東京23FCの監督に就任されました。
「自分はコーチタイプだと思っています。ゆくゆくは、トップのレベルでコーチをしたい。でも2年、東京23FCでプレーしたことで、周りの選手の熱いサッカーへの思いを知ったし、彼ら自身がどんどん成長していました。このチームと戦いたいな、と思っていたところで、オファーをいただきました。それなら、監督をやらせていただこうと」
―いま、何を意識して指導されていますか?
「まず、自分の強みを理解してほしい。どこでプレーしたらいいか、自分が何をしたらマイナスになるかなどを考えてほしい。チームのことや、隣にいる人間が何をしたいと思っているかなどを考えて、プレーするべきですから。でも、個人の力がないとチームも大きくならないし、強くならない。社会人をしながらプロになりたいと言っても、何十万、何百万もの人がプロサッカー選手を目指している。しかも、みんなが努力している。ならば、人の3倍も4倍もやっていかないとたどり着けない。小さいチャンスはどこにでもあるし、できるかは分からないけれどそのためにも毎日頑張っていこうと話しています」
―Jリーグチームでコーチになることもできたかと思いま
す。でも、それをしなかった。
「まだ、自分なりにいまの会社に対して何もしてあげられていない。自分がいることで選手たちの力になるだろうし、これまでプレーさせてくれた東京23FCへ恩返しをしたかった。自分の経験を還元したかったんです。それに、これまでJリーグでプレーしてきたチームにお世話になる未来があったとして、指導者としても腕を上げておきたかった」
―人のため、チームのためにやってきたからこそ、今までプレーしたチームに恩返ししていく姿が想像できます。
「『自分に合っていそうなこと、合っていそうな人』と一緒にやってみる、というのが好きですからね。みんなで同じ方向を見て、やってみて、でもできないこともある。最後に『ダメだったな』と言い合うことが好きというか…」
―では、川勝監督のもとで土屋コーチが指導するのは…。
「やってみたいですが、まずケツさんがやりたいかどうか…。もし誘われたならば、それはやりたいですよ!」
―東京23FCでは、どんなチームを作りたいですか。
「やっぱり、人のため、チームのために戦える選手を集めて、そうやって戦えるチームを作りたいですね。いま、リーグの中でもレベルは高くないほうだと思っています。でも、俺はそういう力をもったチームにしたいし、そういう選手を集めたい。もちろん、監督は簡単なわけではない。リーグとしても、簡単でないことは間違いないです。いきなりJリーグを目指すというのも違うし、段階を踏んでいくべきだとも思う。その上で、一番大事な、戦い方のベースとなるものを作りたい。それは当たり前のことだと思います。それでも、誰もができないことでもある。しっかり、みんなとやりたい戦術を共有したい」
―監督としてのチーム作りが楽しみです。
「どこでも、ちょっとうまい選手はいます。でも、そんなの“うまいに入らない”。それに、うまい選手ばかりだと、同じキャラクターばかりになってしまう。チームとしては、それではうまくいかないもの。自分の力をちゃんと理解できる選手の集団になれればいいと思います」
土屋征夫的BEST11
3-5-2
三浦 知良 フッキ
波戸 康広 岡野 雅行
ラモス 瑠偉 明神 智和 名波 浩
北本 久仁衛 闘莉王 那須 大亮
土肥 洋一
土肥(洋一)さんは“壁”でした。代表級。08年に土肥さんと出会ったとき、「すげえな」と。
北本(久仁衛)は弟みたいな存在です。彼がまだ高校生のときから、同じポジションだったこともあり仲良くなりました。コーチや監督のことよりも自分の話を聞くようになったりして、コーチから「バウルから言ってくれ」と頼まれたこともありました。今でもよく連絡をとります。俺らはうまい選手ではない。だから、何をしたらチームに貢献できるかを考えていました。
那須(大亮)と一緒にプレーしたのは1年だけど、すごくやりやすくて。本当はカンペー(富澤清太郎)も選びたかった…。闘莉王とも4カ月くらいしかやっていないけれど、人間的にすごく“合った”。最後、一緒にやれてよかった。
名波(浩)さんにはなんも勝てないっす。これはいつも言うんだけど、「勝っているのは子どもの数だけです」って(笑)。一緒にプレーしたのは1年だけだったけど、よく家まで連れていってもらいました。あれだけの人なのに、すごく気にかけてくれた。いまでも何かあると、名波さんに電話して、相談しています。
ミョウ(明神智和)は、本当にボール奪取力が高い。それに、黒子役をあれだけ徹底してやれる選手は中々いない。ミョウは本当に“無”。文句も言わないし、そういうところもすごい。
ラモス(瑠偉)さんがヴェルディに帰ってきたのが97年。ずっと怒られながらも、育ててくれた。それに、ヴェルディに呼び戻してくれた。ラモスさんが監督じゃなかったら、ヴェルディに帰れなかったと思う。本当に感謝しています。
岡野(雅行)さんは、これまで生きてきて、出会えて良かった人です。あの(田中マルクス)闘莉王が崇拝する人だから。まず、熱い。あの人に出会わなかったら損。会えたら人生が楽しくなります。当時の神戸の雰囲気を変えてくれました。
左はハットさん(服部年宏)か波戸(康広)で迷ったんですけど、「波戸が喜ぶかな」って(笑)。守備のことを考えてSBを選ぶときに、波戸は1対1ですごく強いし、両サイドもこなせる。2歳下だけど、同い年のように仲がいい。
FWには、すごい人がいっぱいいた。フランサもそうだし、永島(昭浩)さん、黒崎(久志)さん、サク(桜井直人)、(平本)一樹…。中でもフッキは、全部もっているFW。強い、速い、うまい。それに、すごくいいヤツでした。
カズさんとは、自分がブラジルに行く前に会っています。サッカーもやっていなかった18歳が静岡であったブラジル留学の説明会に行ったら、カズさんが来て、サインを全員にくれたんです。それでブラジルに行かせてもらって4年間サッカーをして、帰国して加入したチームがカズさんのチーム。ブラジルではどこでも「カズ、カズ」と言われて、カズさんのすごさを肌で感じていました。それで戻ったら、同じチーム。また、神戸でも一緒にプレーできた。やっぱり、キングです。自分も43歳までJ1でやっていたけれど、あ
のすごさは一緒にプレーした人にしか分かりません。練習からずっと全力。それは60歳になっても変わらないんじゃないかと思う。自分も、少しは似ているところがあったのかな。
俺には技術がないから、メンタルとか、ボールを奪いに行く力を武器にずっとやってきました。それが自分のイメージ通りにできなくなったときに、いる意味がなくなる。でも技術がある選手は、一発で何かができる。それはすごく価値のあることですし、この人たちはマネできないものをもっています。こんなチームに自分は入れない…たとえコーチでも難しい(笑)。
土屋 征夫(つちや ゆきお)
1974年7月31日生まれ、45歳。三菱養和JY→田無工業高→ノロエス
チ→インテルナシオナル→バジェットス(以上、ブラジル)→V川崎→神戸
→柏→大宮→東京V→甲府→京都を経て、18年から関東1部の東京
23FCでプレー。19年10月、現役引退を表明し東京23FCのコーチに。
20年から監督となる。
MASSAGE FOR YUKIO TSUCHIYA
■川勝 良一(指導者、解説者)
バウルの武器は、日々の努力と謙虚さを忘れずに継続したこと
「バウル、(東京23FCの)監督就任おめでとう!無名のバウルが本当に長く、ここまでロでやれたのは日々の努力と謙虚さを忘れずに継続したから。まさしくそれがバウルの武器だと思います。その武器の重要性を、これからは若い選手に伝えて、常に情熱と愛情を持って選手を育てて行って下さい。大いに期待してまっせ! バウル!」
■森 栄次(浦和レディース監督)
彼がいなかったら、たぶん神戸は…
「最初にヴェルディへ来た当時、コーチとしてサテライトで彼を指導していた。バウルから、逆に教わったことがある。『自分の物差しだけで指導してはいけない』ということ。彼は脚力があるから、守備のときに自分の感覚よりももっと相手から離れてよかった。それでもボールを取れてしまうから…。一度目のヴェルディ在籍時は全盛期で、すごいメンバーばかり。バウルは紅白戦にも入れなくて一緒に何度も1対1やキックの練習をやったね。宮崎キャンプで紅白戦をやったとき、1本目のメンバーから外れた選手は周りで見ていて、そこからどんどん呼ばれて試合に入っていくんだけど、最後にバウル一人が残ってね。一緒に座って紅白戦を見たな…。本当に彼は努力した。試合に多く出られるようになったのは神戸に行ってから。バウルが一番成長したタイミングだと思う。弱かった神戸(森氏はコーチ)を何度も助けてもらった。彼がいなかったら、たぶんJ2に落ちていた。バウルは何より人間性がいい。それはこれからも大事にしてほしい。指導者になると聞いているけれど、彼ならばできる。最後、19年に関東リーグでプレーする姿も見られた。その試合で肉離れしちゃったんだけど、よく頑張っていたな…。本当に、ご苦労さまでした」
■飯尾 一慶(クレシメントサッカースクール代表)
お金ではなくて、気持ちで動く
「プレーはもちろん、人間性の部分でも、特別な存在だった。最初に会ったときは(土屋が)練習生。そこから努力を重ねてすごい選手になって、ヴェルディのためにという思いをもって07年に戻ってきた。そこから話すようになって、ずっと一緒にいる感じ。プレーで気持ちを見せられる人だし、信じられないくらい体が丈夫。大ケガもあったけど、甲府や京都でもプレーした。あの年齢でオファーが来ることはなかなかない。個人的に、最後に地域リーグでプレーしたことも一緒(飯尾氏は沖縄SV)。対戦する相手もこれまでとカテゴリーが違うから、すごさを伝えきれない。そのもどかしさはあったと思う。でも、お金ではなくて気持ちで動くのがサッカー選手だから。お疲れさまでした、よくやりましたねという気持ち」
■DF 4 山本 英臣(甲府)
太陽みたいな人。周りを明るくしてくれる
「太陽みたいな人。周りのみんなを明るくしてくれる。このチーム(甲府)の雰囲気を良くしてくれた。年齢を感じさせない、最後までやり切るプレーは、見ている僕らも刺激を受けた。いまの自分の年齢(39歳)くらいのときに大けがをしたのに、そこから長いリハビリに耐えて復活して試合に出た。普通では考えられないこと。この前甲府に来てくれて、一緒にランニングした。『現役を辞めることについて考えている』と話したら、『そういうことは考えず、いま目の前のことを一生懸命やっていればいい』とか、いろいろな言葉を掛けてくれてありがたかった。もう、そういうことを言ってくれる選手も少なくなってきたから」
■DF 3 深津 康太(町田)
いまでも目標。少しでも近づきたい
「ヴェルディに入った瞬間(11年)から、バウルさんが目標になった。自分が一番成長できたのはヴェルディのときで、バウルさんの存在があったから。僕は、『町田でバウルさんみたいな選手になりたい』と思ってヴェルディから移籍した。いまでも目標であることは変わらないし、少しでも近づきたいという気持ち。一緒にプレーしたときのバウルさんのイメージはとにかく強烈で、試合出ていると、チームの雰囲気が変わった。本当に頼れるから。後輩の面倒見もいい。いまでも慕っている人たちが多いのは、あの人間性があるから。一緒にプレーできて感謝しかない。45歳まで現役…35歳の自分からして、あと10年は無理。普通に考えてすごいと思う」
■DF 福田 健介(おこしやす京都AC)
バウルさんがいたことで、チームが引き締まった
「数えてみれば、ヴェルディで5年、甲府で3年。長い期間、一緒にやらせてもらった。自分がプロ1年目だったこともあって、最初は本当に怖かった(苦笑)。試合に出始めて、やっと認めてくれはじめたのかな…。ポジションも隣で、本当にいろいろ教えてくれた。バウルさんの言葉や一つのプレーで、チームが引き締まった。最後の笛が鳴るまで全力でプレーできるし、ここまで続けられたことがすごさを示している。それがすべてだと思う。いまでも移籍するときなどはすぐ報告している。この関係はずっと変わらないと思う」
■DF 33 和田 拓也(横浜FM)
目指すというのとは、ちょっと違う感覚
「自分がプロになる前からプレーを見ていた。経験もそうだし、メンタル的にも、自分からしたらレジェンド的な存在。一緒にプレーしたときは頼もしさもあって、素晴らしい選手だった。自分が考えられないような経験もしてきて、場数が違う。 “手の届かなさすぎるところ”にいた存在で、目指すというのとはちょっと違う感覚。自分が18歳のとき、『世の中にはこんなすごい人たちがいるんだな』と思った。でも、違った。いろいろなチームにも行って、いろいろな選手とプレーしたけど、本当にあの人くらいだった。自分がこの年になってみると、あのころのヴェルディにいた選手たちはみんなすごかったんだとあらためて感じる。その経験があって、いま自分がこうしてプレーできているんだと思う。たぶん、あの人はまだプレーできるんじゃないかって。でも、あの年齢までプレーできたこと自体が、信じられない」
■吉田 正樹(東京23FC強化部長)
10歳下の自分を立ててくれた
「監督をやっていた身としては、攻めているところでのリスク管理のところを口酸っぱく言ってくれて、それがチームにとって大きかった。それに10歳も下で監督をする自分を立ててくれて、その男気で助けられた。人柄としては、オンとオフのところの切り替えがすごくあって、ピッチの中では厳しいけれど、練習が終わったら若手ともコミュニケーションをとってくれた。個人的な心残りは、自分が呼んでおいて先に引退してしまったこと。本当に、一緒に試合に出られなかったのが残念」
■FW エスクデロ 競飛王(栃木)
どんな状況でもやることを変えちゃダメだって
「サッカーに対する情熱が、どんな状態でも変わらない人。いろいろなチームにいっていると、そのときの状況とか、周りの人が変わる。でも、バウルさん自身が変わらないから、やっていることは変わらない。それって簡単そうで、すごく難しいこと。人間って、誰かに気を遣ったり、周りを気にすることもある。でもバウルさんは、自分のやりたいことをやりながら、周りにも分からせる。『どんな状況でもやることを変えちゃダメだよ』って、プレーや行動で僕たちに示してくれた。これまで、海外を含めて自分も多くのチームでプレーしてきたけど、バウルさんは本当に特別で、ひときわ違った。プレーに関しては、日本人離れしている。DFはFWを怖がらせないといけないポジションだけど日本人のDFってなかなかボールを奪いに行けない。でもバウルさんは、ボールを奪いに行く。その気迫はすさまじい。『このプレーが最後になってもいいや』くらいの気持ちで、FW側からしたら『自分がケガしちゃうんじゃないか』ってくらいの勢いでボールに向かっていっている。大事な試合では出せる姿かもしれない。でもそれをいつでも、試合であっても練習であっても出せる選手だった。同じピッチにいると、その気持ちは周りにうつっていく。『バウルさんがあそこまで体を張ってくれるから』と、みんなも走れるし、頑張れる。一緒にプレーしたのは半年だけだったけど、兄貴分として慕わせてもらっている。会えば、ずっと一緒にいたかのように接してくれる。本当に大好きな人」
■GK 1 新井 章太(千葉)
後輩はみんな、あなたを目指して努力します
「バウさんの存在は太陽でした。バウさんがいるところにはいつも笑顔が生まれて、会話に花が咲きます。みんな若手からベテランの選手まで、時にはスタッフまでも全員が笑顔になっていました。僕もそんな先輩みたいな存在になりたいとプロに入ってから10年思ってきました。けれど、到底叶いません。あと10年プロをできたとしても及ばないでしょう。
それに加えて、オンとオフをしっかり切り替えられる選手としての鑑でもありました。自分のやるべきことを必ずやる。また後輩へのアドバイスも丁寧にしてくれていました。プレーしていると熱くなってしまいがちですが、バウさんは違いました。的確に説明してチーム全体を良くしようと考えられる人だったなと、この年齢になり、それがすごいことだとわかりました。
そんな誰よりも愛され、誰よりもチームというものを大事にしてくれていたバウさんが引退してしまうのは本当に寂しかったですが、その後輩たちはみんなバウさんあなたを目指して日々努力します。素晴らしい先輩の姿を見てこれた自分たちは幸せです。またこれからもバウさんはずっとサッカー界の太陽でいてください!本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました」
BLOGOLA編集部