日本サッカー界が悲願のW杯に肉薄しながら悲嘆に暮れた歴史的分岐点
93年10月・ドーハの悲劇(94年アメリカW杯アジア最終予選)
98年フランス大会以降、日本は5回連続ワールドカップを果たし、世界大会常連国となった。この領域に至る極めて重要な分岐点と言えるのが、93年10月28日にイラクに2-2で引き分けた「ドーハの悲劇」だろう。長年の悲願だったワールドカップに肉薄しながらあと一歩のところでどんでん返しを受け、日本中が悲嘆に暮れたあの衝撃的な出来事があったからこそ、その後の日本サッカー界が飛躍的成長を遂げることができたのだ。
90年代までの日本サッカーの足跡を振り返ってみると、1964年東京五輪でベスト8、1968年メキシコ五輪銅メダルと、日本代表にはかつて華々しい時代があった。この時代の日本サッカー界は代表強化の重点を五輪に置いていて、ワールドカップは別世界の大会という位置づけていた。とはいえ、メキシコ五輪銅メダル獲得によって、ワールドカップへの関心も高まり、70年メキシコ大会以降は継続的にアジア予選に参加するようになった。
だが、日本サッカー史上最高のストライカーと称される釜本邦茂を擁したこの当時でも、日本はアジア予選で全く歯が立たなかった。86年メキシコ大会は何とか最終予選までコマを進めることができ、宿敵・韓国との東京・国立競技場での一戦当時の背番号10・木村和司(現解説者)が芸術的なFKを叩き込んだが、ホーム&アウェーで連敗。本大会には手が届かなかった。90年イタリア大会予選に至っては1次予選で敗れ去る有様。世界最高峰の大舞台は夢のまた夢でしかなかったのだ。
停滞感の強かった日本代表が劇的に飛躍する契機となったのが92年3月、初の外国人指揮官となるハンス・オフト監督の招聘だった。ヤマハ(現磐田)やマツダ(現広島)で指導歴のあるオランダ人指導者が「コンパクト」や「スリーラインなど当時重視されていた基本戦術を1から叩き込んだことでチームは急激な成長曲線を描き、92年10から11月のアジアカップ(広島)で初優勝。94年アメリカ大会出場への機運が一気に高まってきた。93年4〜5月に1次予選でUAEのいるグループを1位通過し、5月にJリーグが発足してサッカーブームが沸き起こると、10月の最終予選への注目度は飛躍的に上昇した。
1次予選の代表はGK松永成立(現横浜GKコーチ)、DF(右から)堀池巧(源解説者)、柱谷哲司(現水戸監督)、井原正巳(現福岡監督)、都並敏史(現浦安SCテクニカルディレクター)、ボランチ・森保一(現広島監督)、右MF吉田光範(現吉田サッカースクール代表)、左MFラモス瑠偉(現岐阜監督)、トップ下・福田正博(現解説者)、FW高木琢也(現長崎監督)、三浦知良(横浜FC)というのが基本。1次予選を負傷欠場した北澤豪(現日本協会理事説者)、急成長していた沢登正朗(現常葉大学浜松監督)、高木とポジションを争っていた中山雅史(現解説者)らも主要メンバーに名を連ねていた。
ところが、重要な最終予選を前にして、左サイドのスペシャリスト・都並が左足首を亀裂骨折。代役不在という深刻な事態に陥った。オフト監督は攻撃的MFが本職の江尻篤彦(現千葉U-18監督)やボランチの三浦泰年(現チェンマイ監督)、センターバックの勝矢寿延をテストしたが、いずれも都並のような絶妙のバランスを維持できない。都並を強行でメンバー入りさせたものの、フル稼働は難しい。指揮官はやむなく三浦泰年を先発させる決意を固め、10月の大会を迎えた。
このアジア最終予選はセントラル方式。会場はカタールのドーハで、出場国はサウジアラビア、イラン、イラク、北朝鮮、韓国、日本の6カ国で、上位2チームしか本大会に行けない超狭き門だった。しかも試合間隔が中1日という強行日程。今では考えられないことだが、アジアではそういう無茶が簡単に通ってしまう。選手たちは過酷な条件にも打ち勝つ必要があった。
日本は初戦・サウジアラビア戦は0-0で何とか乗り切ったものの、第2戦・イラン戦は相手に徹底的いに左サイドを攻められ先に2失点。中山が執念で1点を返したものの、1-2で黒星を喫してしまう。短期決戦での敗戦は致命傷になりかねない。実際、日本は6チーム中最下位に沈み、絶体絶命の窮地に追い込まれた。
そこで、オフト監督は守備力の高い勝矢の抜擢を決断。第3戦・北朝鮮戦から左サイドバックに据える。そして中盤をダイヤモンドではなく森保と吉田のダブルボランチ気味にし、ラモスを左MF、右サイドには下がり目のウイングに長谷川健太(現G大阪)を起用し、左寄りの最前線にカズと中山を配置する変則的な4-3-3のような布陣に変更する。オフト監督はエリアごとゾーンで守る形を徹底してきただけに、この大胆な変更は苦肉の策としか言いようがなかったが、修羅場を潜り抜けるためにはやむを得ない。そう判断したのだろう。
その采配は的中し、日本はカズの2発と中山のゴールで北朝鮮を3-0撃破。ようやく予選突破の可能性が見えてくる。続く第4戦・韓国戦はオフトの申し子だった森保が出場停止となり、ラモスがボランチに下がり、北澤が攻撃的MFに入る形。守備が不安視されたが、チーム全体が鬼気迫る守りを披露。カズが値千金の決勝ゴールを挙げ、とうとう宿敵から勝利をもぎ取る。カズが試合後に号泣したほど、この1勝の意味は大きかった。
迎えた93年10月28日の最終戦・イラク戦。夕刻のアル・アハリのスタジアムには遠い日本から駆け付けたサポーターも陣取り、アメリカ行き決定の瞬間を見守ろうとした。この時点で日本は勝ち点5(当時は白星が勝ち点2)でサウジアラビアとともに2位以内をキープ。このまま終われば悲願だった世界切符を手にできる状況だった。オフト監督は出場停止明けの森保をボランチ、ラモスを攻撃的MFに戻す変則4-3-3でスタート。開始5分に長谷川のミドルシュートがクロスバーを叩いたこぼれ球をカズが頭で決めて早々と先制。1-0で前半を折り返した。
しかし後半、イラクは一転して前がかりになり、開始10分に同点に追いつく。この同点弾を機にイラクは勢いに乗り主導権を握って日本陣内に攻め込む。日本は防戦一方となったが、後半24分、ラモスのスルーパスに中山が抜け出して右足ゴール。これはオフサイドではないかと物議を醸したが、得点として認められ、日本は2-1と一歩抜け出した。
90分が経過した時点で、韓国は北朝鮮を3-0で、サウジアラビアがイランを4-3で下しており、日本が勝てば韓国は3位で出場権を逃すはずだった。だが、後半ロスタイムにまさかの出来事が起きる。日本は武田修宏(現解説者)が焦ってボールを奪われ、相手に右CKを与えてしまう。そして次の瞬間、イラクは意表を突くショートコーナーを見せ、カズを振り切ったフセイン・カディムがクロスを蹴りこむ。これに反応したオムラム・サルランがヘッド。そのボールが守護神・松永の頭上を越えてゴールに吸い込まれていったのだ。この直後にタイムアップの笛。2-2に追いつかれた日本は韓国に抜かれて3位に転落。アメリカ行きは幻と消えた。この試合を生中継していたテレビ東京の解説者を務めた岡田武史氏(現FC今治代表)が人目をはばからず涙を流すほど、日本中が衝撃に包まれる。「ドーハの悲劇」はまさに悪夢以外の何物でもなかった。
後から振り返ると、当時のオフトジャパンは都並1人が離脱しただけでチームが崩れる選手層の薄いチームだった。オフト自身も重圧のかかる舞台で選手たちを完全にコントロールしきれなかった。日本サッカーが未成熟だったことを改めて露呈した最終予選だったと言ってもいいだろう。この屈辱を経てワールドカップ出場が日本サッカー界の至上命題となったのは間違いない事実だ。(元川 悦子)
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