Feature 特集

マイアミの奇跡(1996年アトランタ五輪)/日本代表の軌跡

2015/3/19 11:36

28年ぶりに挑んだ五輪本大会でブラジルに歴史的勝利も、まさかの1次リーグ敗退


96年7月・マイアミの奇跡(1996年アトランタ五輪)

 日本がFIFA(国際サッカー連盟)公式大会でブラジルを下した試合は過去に1回しかない。96年アトランタ五輪初戦、いわゆる「マイアミの奇跡」である。リバウド、ベベットら当時のスーパースターを擁するサッカー王国に28本ものシュートを打たれながら、守護神・川口能活(現岐阜)のスーパーセーブなど徹底的堅守でしのぎ、後半27分のワンチャンスを伊東輝悦(現長野)がモノにした1−0の歴史的白星はその後、日本代表が98年フランスワールドカップ初出場という悲願を達成する大きなきっかけとなった。


 94年10月の「ドーハの悲劇」の後、日本サッカー界は世界への意識をより強めた。ハンス・オフト元監督の招聘に踏み切った当時の日本サッカー協会強化委員長・川淵三郎は「全ての世代で韓国に勝って、世界大会へ出ろ」と常日頃から強調していたから、年代別代表の指導者たちは危機感を募らせた。

 その筆頭が95年U−17世界選手権(エクアドル)に挑んだ松田保監督(現びわこ成蹊大学総監督)とU−20ワールドユース(カタール)に出場した田中孝司監督だ。小野伸二(札幌)らを擁した松田監督率いるジュニアユース代表は94年アジア最終予選(カタール)で優勝。中田英寿らを擁した田中監督率いるユース代表も94年アジア最終予選(インドネシア)で準優勝し、揃って世界大会に出場する。前者は95年エクアドル本大会で惜しくも1次リーグ敗退を余儀なくされたが、ユース代表の方は95年カタール本大会でベスト8に躍進。ブラジルとの準々決勝では奥大介の先制点で一時リードするほどの勢いを見せた。2つの年代別代表が揃ってアジアの壁を破り、世界舞台に立ったことは、日本サッカー界の大きな弾みとなったのだ。

 次は96年アトランタ五輪代表の番。68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得して以来、28年間も五輪から遠ざかっていた日本にとって、アトランタ行きは至上命題だった。指揮を執ったのは西野朗監督(現名古屋)。92〜93年にユース代表監督を務めた彼が、持ち上がりで五輪代表を見ることになったのだ。川口、伊東、服部年宏(現磐田強化部長)、城彰二(解説者)らはユース代表から引き上げられた選手。そこに前園真聖、小倉隆史(ともに現解説者)らを加えた形で94年にチームが発足し、95年の1次予選を順当に突破した。

 最終予選は96年3月。場所は酷暑のマレーシアだ。ところが1月の直前合宿で「レフティモンスター」の異名を取っていた小倉が右ひざを負傷。チームに暗雲が立ち込める。その穴を埋めるべく、前園と城、ユース代表から引き上げられた中田が奮起。予選本番ではイラク、オマーン、UAEとの1次リーグを2勝1分で突破し、日本は世界切符を賭けて準決勝・サウジアラビアに挑んだ。「最終予選出場8カ国中最強」との呼び声の高かった相手を封じるため、西野監督はO・ドサリとK・ドサリという2人のエースにそれぞれ白井博幸と伊東をマンマークさせるという秘策を披露。これがズバリ的中する。そしてキャプテン・前園が2ゴールと爆発。終盤には川口も神がかり的なセーブを連発し、2−0でタイムアップの笛。日本は28年ぶりの本大会行きを現実にする。彼らが世界切符をつかんでいなければ、その後の5大会連続五輪出場という歴史はあり得なかった。

 アトランタ五輪はその4カ月後の7月。小倉の復帰は叶わなかったが、それ以外はこの時点でのベストの陣容でアメリカへ乗り込むことができた。しかしながら、初戦の相手はブラジル。彼らは94年アメリカワールドカップ優勝メンバーを何人も加えて、本気で金メダルを狙いに来ていた。

 この相手にどう挑むのか……。西野監督が考えたのは、徹底的に守って、ワンチャンスからのカウンターを狙うことだった。べベットとサビオという両FWに鈴木秀人(現磐田ヘッドコーチ)、松田直樹という強力マンマーカーをつけたうえ、トップ下のジュニーニョに服部を密着マークさせるというサプライズ采配を見せたのだ。予選を通じてボランチのレギュラーだった廣長優志(現エスコリーニャ デ クラッキ・コーチ)を外して服部をつけるというのは、紛れもない奇策。本人も驚きを隠せなかったという。

 96年7月22日、マイアミのオレンジボウルはブラジルからやってきた熱狂的サポーターで埋め尽くされ、完全なるアウェー状態。それが逆に日本選手たちのアドレナリンを増幅させたのだろう。彼らの粘り強い守備は鬼気迫るものがあった。ブラジルの雨嵐のようなシュートを川口が次々と弾き返し、決してゴールを許さない。「簡単に勝てるだろう」とタカを括っていたブラジルサポーターが徐々に静まり返り、後半になると悲壮感さえ表し始める。スタジアムは異様な空気に包まれた。

 そんな後半27分、一瞬のスキから日本に歴史的ゴールが生まれる。左サイドの路木龍次がアーリークロスを上げ、中央に走り込んだ城とGKジダが交錯。こぼれたボールをゴール前に詰めた伊東が無人の蹴り込んだのだ。「ITO」の名は世界中に打電され、日本サッカー史に深く刻まれることになった。

 実は日本のスカウティング部隊は「センターバックのアウダイールとGKジダの間の守りが弱い」と分析していた。それをもとに、西野監督と山本昌邦ヘッドコーチ(現解説者)は「そこを狙ってボールを蹴りこめ」と選手たちに指示を出していた。ジダのミスが出たことはアクシデントだが、そこを狙えたのは徹底した準備があったから。「マイアミの奇跡」というのは「必然」だったことを我々は今一度、再認識すべきだろう。

 ブラジルはその後、凄まじい猛攻を見せたが、川口、鈴木、松田、田中誠(現解説者)、服部ら守備陣は次々とボールを跳ね返す。彼らの集中力は常軌を逸していた。試合はそのまま終了の時を迎える。西野監督と山本ヘッドコーチが抱き合い、前園、城、中田英寿が歓喜の雄叫びを上げる。その傍らでベベットやアウダイールらW杯優勝選手たちがガックリうなだれた。カナリア色のサポーターたちは落胆を露わにし、涙を流す者さえいた。28本のシュートを放った王国が1点も取れず、わずか4本のシュートで決勝点を奪った日本が勝つとは一体、誰が想像しただろう。両者の実力差は明白だったが、日本が勝ったことだけは紛れもない事実だった。

 フロリダ半島の中央部・オーランドでの2日後の第2戦はナイジェリアが相手。FWヌワンコ・カヌや、攻撃的MFオーガスティン・オコチャなど優れたタレントをズラリと並べる強敵だ。

 相手との実力差を冷静に分析した指揮官は、ブラジル戦同様、超守備的な戦い方を選んだ。相手をマンマークして長所を消すという戦い方は少なからす機能し、前半を0−0で折り返すことに成功した。しかし、守備ばかりに忙殺され、攻撃に出られない前園や中田ら攻撃陣は苛立ちを隠せなくなる。そしてハーフタイムに大事件が勃発してしまう。

中田は路木に「もっと押し上げくれないとサッカーにならないじゃないか」と語気を強めた。路木は西野監督から「自陣に下がってボールを取れ。あんまり押し上げるな」と指示されていたから返答に困った。田中、鈴木、松田ら守備陣は戦術を忠実に守っていたのに、中田らはそれを曲げて前に出てゴールを狙おうとしたのである。西野監督は我慢できずに「みんなが頑張っているのに、なんでお前はそういうことを言うんだ」と苦言を呈した。副キャプテン・服部は「自分さえしっかりしていれば……」と悔やんだようだが、一触即発となったムードはすぐには収まらない。15分間のゴタゴタによって一枚岩だったチームの結束が崩れてしまったのだ。

 それでも後半も0−0で何とか耐えていたが、後半23分に田中が負傷退場。守備の要を失ったチームは後半38分にオウンゴールで1点を失い、終了間際にオコチャに2点目を奪われる。最低でも引き分けたかった日本にとって0−2は痛すぎる敗戦だった。

2戦終えてナイジェリアが勝ち点6、ブラジルと日本は3。得失点差では日本が下回っていて、最終戦・ハンガリー戦で大勝するしか生き残る道はなくなった。西野監督はここ一番で攻撃的スタイルへ一気にシフト。前線に城と松原良香(現解説者)の2トップを配し、トップ下に前園、ボランチに伊東と服部、右サイドに森岡茂(現FC大阪監督)、左サイドに路木らを置く3−5−2を採るサプライズを見せた。加えて指揮官は自分に意見した中田を先発から外し、チームをまとめる方向に運ぼうと考えたようだ。

 けれども、リスク覚悟の大胆策は実らなかった。日本は立ち上がりの3分に先制点を食らう。前半終了間際に前園が同点弾を叩き込むも、後半立ち上がりにハンガリーに追加点を奪われた。終了間際に途中出場の上村健一(現讃岐ヘッドコーチ)が2点目を奪い、さらにエース・前園が3点目を挙げて奇跡的な逆転勝利に持ち込んだが、ブラジルがナイジェリアを1−0下したことで、万事休す。西野監督率いる若き集団は2勝しながら1次リーグ敗退を余儀なくされてしまった。

 とはいえ、前園や中田、川口、松田を筆頭に、高い技術と戦術眼、自己判断力、強靭なメンタリティを持った選手がここまで数多く揃ったチームも珍しい。確かに破天荒な一面があったが、「彼らなら大化けするかもしれない」という無限の可能性を感じさせてくれた集団だった。「マイアミの奇跡」を起こしたアトランタ世代のエネルギーと闘争心が、その後の日本サッカーを変える原動力となったのは間違いない。


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