Feature 特集

黄金世代、ワールドユース準優勝(1999ワールドユース)/日本代表の軌跡

2015/4/9 10:12

黄金世代、ワールドユース準優勝。日本躍進の礎築く


99年4月ワールドユース ナイジェリア

 98年フランスワールドカップ惨敗の後、日本代表監督に就任したフランス人指揮官、フィリップ・トルシエ。彼はA代表だけでなく、2000年シドニー五輪を目指すU−21日本代表監督を兼務。さらに99年1月からはU−20日本代表の指揮も執るようになる。アフリカを熟知する彼は大会前にブルキナファソ遠征を実施して、日本の若い世代にタフさと逞しさを身に着けさせ、4月のUー20ワールドユース選手権(現U−20ワールドカップ、ナイジェリア)に参戦。小野伸二、稲本潤一(ともに札幌)、高原直泰(相模原)、遠藤保仁(G大阪)、本山雅志、小笠原満男(ともに鹿島)ら傑出したタレント軍団は次々と勝利を重ねていき、日本サッカー史上初のFIFA公式大会決勝進出(当時)を達成。惜しくもファイナルでシャビ(バルセロナ)擁するスペインに敗れたが、彼らは世界の大舞台で鮮烈な印象を残した。この世代の成功がその後のシドニー五輪8強入り、2002年日韓ワールドカップベスト16進出の原動力になったのは間違いない。


 95年ワールドユース(カタール)8強入り、96年アトランタ五輪出場、98年フランスワールドカップ初参戦と、90年代後半の日本サッカー界は凄まじい勢いで世界に追いつこうとしていた。98年フランス大会直後には中田英寿がイタリア・セリエAのパルマへ移籍。初戦・ユベントス戦でいきなり2ゴールの華々しいデビューを飾るなど、日本の若い才能に注目が集まり始めていた。

 そんな中、台頭してきたのが79年生まれの黄金世代である。奇しくも日本で初めてワールドユースが開催された年に生まれた小野、稲本、高原ら、そして同学年で早生まれの遠藤、加地亮(岡山)らは史上最高のタレント軍団と称された。彼らは2002年日韓ワールドカップ招致活動が繰り広げられている時期に中学・高校生となり、親善大使として世界各国を回ることができた。95年にはブラジルの聖地・マラカナンでブラジルと激突したこともある。「あの時の衝撃は忘れられない」と小笠原も語っていたが、過去の日本サッカー界にはありえなかったほどの国際経験を早い時期から身に着けることができたのだ。

 それだけに、この世代への期待は大きかった。98年10月のAFCアジアユース選手権(タイ・チェンマイ)では宿敵・韓国に決勝で敗れたものの、小野や高原らの抜きんでた実力は確かだった。その若い力をトルシエが見逃すはずがない。アジアユースまで指揮を執っていた清雲栄純監督(現千葉取締役)に代わり、ワールドユース直前の99年1月に監督に就任。赤鬼流の厳しいトレーニングが始まった。

 トルシエは気持ちが入らないプレー、一瞬のスキを許さなかった。プレー中に靴の紐を結び直す選手がいれば激怒し罰走させるのは当たり前。ブルキナファソでは移動は全てバスで、現地の食事を食べさせ、誇りのまみれたベッドで寝かせた。「日本に生まれればあんな貧しい暮らしとは無縁だ。それだけ素晴らしいチャンスに恵まれていることを分かってほしかった」と指揮官は述懐した。

 チーム作りに当たっては、自身の代名詞であるフラット3をユース代表にも持ち込んだ。アジアユースまでの日本は市川大祐(元清水)、金古聖司(アーントンFC)、手島和希(京都アカデミーコーチ)、石川竜也(山形)の4バックを採用していたが、指揮官交代と金古の負傷離脱によって、辻本茂輝(現鳥取U−18監督)、手島、中田浩二(現鹿島CRO)の3バックに変更された。中田浩二はずっとボランチだったから、このコンバートには驚いただろう。しかし、左利きで正確なフィードを出せる能力の高さを買われ、大成功を収めることになる。「フィリップと出会わなければ、シドニー五輪も、2度のワールドカップ出場も、海外移籍もなかった」と中田浩二はフランス人指揮官との出会いに感謝していた。選手の人生は指導者との巡り合わせによる部分が大なのだ。

 中盤から前も構成が大きく変化した。アジアユースの時は酒井友之(現浦和ハートフルコーチ)、稲本がダブルボランチを組み、小野と本山が2列目を形成。2トップは高原と播戸竜二(大宮)が基本だったが、トルシエ就任後は稲本、小笠原、小野が中盤を流動的に動き、右サイドに市川、左サイドに本山が入る形に変更された。けれども、本大会を前に市川がオーバートレーニング症候群にかかってしまい、右サイドには酒井が定着。中盤も稲本がひざのケガを抱えて精彩を欠いたことから遠藤がレギュラーに浮上した。小笠原や遠藤はトルシエが来なければ試合に出られなかった可能性が大だった。彼らにとってもフランス人指揮官の存在は大きかった。

 そして2トップは高原と1学年上の永井雄一郎(群馬)が陣取り、播戸はスーパーサブに。当時の永井は抜きん出たドリブラーとして名を馳せ、ドイツのカールスルーエでプレーしていた。97年ワールドユース(マレーシア)にも出場経験があった。守護神・南雄太(横浜FC)もそうだが、2大会連続出場となった彼ら2人の経験値はチームにとって非常に大きかった。

 ワールドユース本番は4月3〜24日にナイジェリアの首都・ラゴスのほか、カドゥナ、イバダン、エヌグ、カノ、バウチ、カラバル、ポートハーコートの8都市で開催された。日本はカメルーン、アメリカ、イングランドと同組。初戦・カメルーン戦はカノ、残り2試合はバウチで行われた。

 ところが、初戦前にトルシエのA代表監督解任騒動が勃発。現地入りがギリギリになってしまった。その影響もあり、初戦は1−2で逆転負け。日本は黒星発進を強いられた。それでも選手たちは内容で相手を上回っていたことを前向きに捉えており、負けを引きずることはなかった。こうしたメンタリティがプラスに働き、2戦目のアメリカ戦はオウンゴール、高原、小笠原のゴールで3−1の勝利。1次リーグ突破の目が出てきた。そして第3戦・イングランド戦は、前半30分過ぎにスタジアムの照明4基のうち2基が消えるという予期せぬアクシデントが発生したが、試合は続行。唯一の大学生だった石川竜也が芸術的FKを蹴りこんで先制に成功した。さらに後半には小野の追加点が入って2−0で勝利。日本は1位通過で16強入りを決めた。

 決勝トーナメント1回戦は強豪・ポルトガルが相手。1位通過した日本はバウチに残って体力を温存できた。チームの雰囲気もよく「97年大会ではみんな帰りたいと言っていたのに、今回は誰も帰りたいとは言わなかった」と永井も嬉しそうに語ったことがある。選手たちも持参したバリカンでお互いの頭を刈るなど、アフリカ生活をそれぞれにエンジョイすることを忘れなかった。このチームは「本気で優勝してやろう」という意欲とモチベーションに満ち溢れていたのだ。

 ポルトガルとは案の定、死闘となった。前半を0−0で折り返した日本は後半、遠藤のミドルシュートで先制。当時の遠藤はミドルを積極的に打つ選手で、決定率も高かった。「僕らはチームとして完全に機能していたし、ホントに人々を魅了するサッカーができていた。やっててすごく楽しかった」と遠藤も話したことがある。だからこそ、相手に追い付かれ、遠藤・PK戦へともつれこんでも誰1人、負ける気がしなかったのだろう。日本は守護神・南の活躍もあってポルトガルに勝利。3大会連続8強入りを果たした。

 この先は日本にとって未知なる領域。準々決勝の相手は当初、アルゼンチンになると見られたが、彼らがまさかの敗退。日本の相手はメキシコになった。「僕らは運があった」と小野も言っていたが、勢いに乗った日本に負ける予感はなかった。中2日の強行軍でイバダンへ移動し、2−0で中南米の雄を撃破。ついに4強入りを現実にする。ここで彼らに立ちはだかるのは王国・ブラジルだと思われたが、アルゼンチンに続いてブラジルも敗れてしまい、日本の相手はウルグアイとなった。これも間違いなく幸運に他ならない。選手たちも「ウルグアイなら勝てるかも」と大きな希望を抱いた。

 首都・ラゴスでの大一番。日本は序盤から小気味いいパスワークを武器とする相手に翻弄されたが、高原が巧みに先制。直後に追いつかれたものの、期待されながら結果を出せていなかった永井が決勝点をゲット。2−1で勝利し、とうとうFIFA公式大会初のファイナリストになることに成功した。トルシエは全選手に祝福のキスを送り、熱い抱擁を交わす。彼らからは強固な結束が強く感じられた。

 迎えた4月24日。ラゴス国立競技場のピッチに立ったのは日本とスペイン。ただ、残念なことにキャプテン・小野が出場停止になってしまった。そこでトルシエはここまで唯一出場機会のなかった氏家英行(現群馬ヘッドコーチ)を抜擢。小笠原、遠藤とともに中盤に並べて3ポランチのような布陣を敷いた。が、やはり小野の不在は戦術的にもメンタル的にも大きく、日本はシャビらの打開力、キープ力、戦術眼の高さに度肝を抜かれ、立ち上がりから圧倒されてしまう。前半だけで3失点し、終わってみれば0−4の惨敗。内容的にはもっと点を取られていてもおかしくなかった。

 それでも、同世代の世界トップの球際の激しさや技術の高さ、ゴール前の凄味などを体感できたのは大きかった。小野や稲本が2001年に欧州移籍に踏み切り、その後を追うように高原、中田浩二、小笠原らが次々と外へ出て行ったのも、シャビらに追いつきたい一心だったからだろう。黄金世代がリスクを冒して世界へ出ていかなければ、その後の本田圭佑(ミラン)や香川真司(ドルトムント)らが欧州で成功を収めることもなかった。99年ワールドユース準優勝が日本サッカー躍進の礎になったことを、我々は今一度、深く脳裏に刻むべきだ。

選手・試合データはこちら

EG 番記者取材速報

League リーグ・大会