Feature 特集

ブラジルワールドカップ惨敗(2014ブラジルW杯)/日本代表の軌跡

2015/5/7 11:00

アジア杯制覇後の予想外の失速。主力硬直化の弊害。そしてブラジルでの衝撃的惨敗


2014年ブラジルワールドカップ

 2010年南アフリカワールドカップで中立地初の16強入りを果たした日本。次なるターゲットは2014年ブラジル大会でのベスト8進出だった。かつてユベントス、ACミラン、インテルのイタリアビッグ3を全て指揮したアルベルト・ザッケローニ監督を招聘し、南アの主力だった本田圭佑(ミラン)、長友佑都(インテル)、遠藤保仁(G大阪)、長谷部誠(フランクフルト)らを擁した集団は2011年アジアカップ(カタール)でいきなり優勝。非常に期待値が高かった。だが予選を突破し、本番が近づくにつれてチームが硬直化。長谷部と内田篤人(シャルケ)の負傷や本田、香川真司(ドルトムント)らの不振も重なり、ブラジル本大会では初戦でコートジボワールに1−2で逆転負け。これで意思統一を失ったチームはギリシャから勝ち点1を得るのが精一杯で、コロンビアには1−4の完敗。グループ最下位での1次リーグ敗退という最悪の結末を余儀なくされた……。


 南アの後、中村俊輔(横浜)と楢崎正剛(名古屋)が代表引退を宣言し、キャプテンを任せられた中澤佑二(横浜)も区切りをつける意思を表明した日本代表。それでも南アで2点を奪った本田、1点を奪った遠藤や岡崎慎司(マインツ)らは健在だった。加えて南アではサポートメンバーに終わった香川が2010年夏に移籍したボルシア・ドルトムントで大ブレイクし、南アで出番なしだった内田もシャルケで鬼軍曹のフェリックス・マガト監督の下、確実にスケールアップ。長友もチェゼーナ移籍で世界基準のサイドバックに変貌しつつあり、日本サッカーの未来は非常に明るいと思われた。

 そこにやってきたのが、ザック監督。日本サッカー協会の原博実技術委員長(現専務理事)は当初、マヌエル・ペジェグリーニ監督(マンC)らの招聘を目指したが、交渉は難航。最終的にザックにたどり着いた。彼はイタリアでは「過去の人」のような扱いをされていたが、ビッグ3を指揮した経験と誠実な人柄を原委員長が高く評価。ザックを指揮官に据えてブラジルを目指すことにしたのだ。

 そのザック体制初戦だった2010年10月のアルゼンチン戦(埼玉)で、日本は岡崎の決勝点を守り切って1−0と大金星を挙げる。このインパクトは大きく、新生・日本代表への期待値は一気にヒートアップした。続く2011年1月のアジアカップでは、松井大輔(磐田)や香川の負傷離脱などアクシデントを乗り越えて、アジア王者に輝く。これでチームは確実に上昇気流に乗ったと思われた。吉田麻也(サウサンプトン)ら若手も成長し、この大会で確固たる軸ができたのは、日本代表にとっても大きかった。

 とはいえ、後から振り返ってみると、このアジアカップ制覇が劇的だったがゆえに、ザック自身がこの主力に固執しすぎることになった部分は少なからずあったのではないか……。

 もちろん、イタリア人指揮官は自らの伝家の宝刀ともいうべき3−4−3にも何度かトライしたし、宇佐美貴史(G大阪)や家長昭博(大宮)ら新戦力抜擢にも熱心だった。実際、2011年8月の日韓戦(札幌)では急成長を遂げていた清武弘嗣(ハノーファー)を代表デビューさせ、瞬く間にチームに定着させている。本田がこの直後に右ひざ負傷に見舞われ、長期離脱を強いられたこともあり、新戦力の確保は大きな命題だったからだ。2011年9月の北朝鮮戦(埼玉)からスタートしたブラジル大会アジア3次予選ではハーフナー・マイク(ヘルシンキ)や中村憲剛(川崎)らもキーマンとして活躍。11月のタジキスタン戦(ドゥシャンベ)に勝って2試合残した時点で最終予選突破を決めた。その2試合だった北朝鮮戦(平壌)、ウズベキスタン戦(豊田)を落とすという屈辱を強いられたが、日本は順当に次のステージにコマを進めた。

 最終予選は2012年6月のオマーン、ヨルダン、オーストラリアとの3連戦からスタート。直前に本田が復帰して背番号を慣れ親しんだ18から4に変更。4−2−3−1の絶対的トップ下が戻ってきた日本はオマーンに3−0、ヨルダンに6−0と圧勝。オーストラリアとは敵地・ブリスベンで1−1の引き分けに終わったものの、スタートダッシュに成功する。予選期間内に香川のマンチェスター・ユナイテッド移籍も決まり、チームには前向きなムードが漂った。

 続く9月のイラク戦(埼玉)は内田と今野泰幸(G大阪)が出場停止、香川も欠場と戦力ダウンを強いられたが、駒野友一(磐田)や前田遼一(FC東京)らの奮闘で1−0で勝利。11月のアウェー・オマーン戦(マスカット)でも清武と岡崎の2発で勝利し、最終予選突破に王手をかける。だが、2013年3月のヨルダンとの大一番(アンマン)は本田と長友が負傷欠場。そのせいか相手の勢いに押されて前半終了間際に失点。さらに吉田と酒井高徳(シュツットガルト)のミスが重なり2点目を献上してしまう。香川が一矢報いるゴールを挙げたが結局は1−2で敗戦。本大会切符は次に持ち越された。

 迎えた2013年6月のオーストラリア戦(埼玉)。日本はザックが鉄板と位置づけた11人が揃い、満を持して宿敵を迎え撃った。日本ペースで試合は進んだが、相手の堅守は崩れない。そんな後半37分、一瞬のミスから失点し、絶体絶命の危機に瀕してしまう。そんな後半ロスタイム。相手のハンドでPKを得た日本は本田がそれを決めきり、1−1に。これでついに5大会連続ワールドカップ出場権獲得が決定。ザックも最低ノルマを果たし、安堵感をにじませた。

 けれども、ここからチームに暗雲が立ち込めるとは誰も予想しなかったに違いない。直後のコンフェデレーションズカップ(ブラジル)で日本はブラジル、イタリア、メキシコに挑んだが、0−3、3−4、1−2の3連敗。イタリアにはインテンシティーの高い戦いを見せることができたが、結果的には3試合で9失点という守備崩壊を余儀なくされた。この大会までは1トップに前田、中盤のバックアップに中村憲剛、最終ラインのバックアップに栗原勇蔵(横浜)を入れていた指揮官もベテラン勢に頭打ち感を覚えた様子だった。

 そこで、国内組だけで挑んだ8月の東アジアカップ(韓国)には、2012年リオデジャネイロ五輪4強入りの原動力となった山口蛍(C大阪)、絶好調をキープしていた柿谷曜一朗(バーゼル)、大迫勇也(ケルン)、青山敏弘(広島)、森重真人(FC東京)らを大量招集。彼らを軸に戦って韓国を撃破しタイトルを取ると、こうした新顔たちを次々と融合させようと試みるようになる。前田に代わる新1トップ・柿谷への期待はとにかく大きく、直後のウルグアイ戦(宮城)から先発に抜擢。彼に強いこだわりをのぞかせた。

 こうしたテコ入れ策と反比例するかのように、日本代表の状態は下降線をたどり始める。ウルグアイに4失点した後、ホームでのグアテマラ(大阪)とガーナ(日産)には何とか勝ったものの、10月のセルビア(ノヴィサド)・ベラルーシ(ジョジナ)2連戦に敗れると、チーム内が大きく揺れ動く。自分たちのボールポゼッションを主体とした本田や長谷部らと、勝利に強くこだわる内田のような選手がいて意見は分かれていた。ザックの同じメンバーばかりを使う采配も問題視され、本大会を半年後に控えたチームは大きな岐路に立たされた。

 指揮官は翌11月のオランダ(ゲンク)・ベルギー(ブリュッセル)2連戦で山口蛍や大迫、森重らを抜擢。不動のボランチだった遠藤をジョーカー的に使う采配も的中し、2−2、3−2と強豪相手に1勝1分で終えることに成功する。チーム全体も協会サイドもこの2連戦でほっとしたのは間違いないだろうが、本番はこの後。ベルギーがこの時の敗戦を糧にチームの抜本的入れ替えを行い、日本が逆に方向性を変えなかったことが、ブラジル大会の明暗を分けるとは、誰も予想できなかった。

 そして2014年に突入。日本代表にはさらなるアクシデントが襲う。チームの精神的支柱である長谷部、欧州で高いレベルを知り尽くした内田、守備の要・吉田の3人がケガで本大会出場が危うくなったのだ。加えてACミランへ移籍した本田が思うようなパフォーマンスを見せられずに苦しみ、マンU2年目の香川も不調にあえぎ、長友も足の状態が芳しくなかった。主力で絶好調なのはマインツ移籍1年目でリーグ15得点を叩き出した岡崎1人。不安は募るばかりだったが、ザックはチームの骨格を大きく変えなかった。唯一のサプライズはベテラン・大久保嘉人(川崎)の抜擢だった。点の採れる男がどうしても必要だったのだろう。その大役を大久保に託したのだ。

 5月の指宿合宿には長谷部や内田も復帰して走り込みを実施。本番では問題なくプレーできると思われた。が、アメリカ・クリアウォーターでの直前合宿で長谷部が全身の張りを訴えて離脱。酒井高徳もケガが癒えずに練習をこなせなかった。それでも事前のコスタリカ、ザンビア戦に連勝。チームは前向きな方向に向かっていると選手たちはみな信じて疑わなかった。ザックはブラジルのベースキャンプ地・イトゥに入ってから突如、練習を休みにする日を設けるなど、通常と異なるマネージメントを見せ、精神的な部分が懸念されたが、それでも前回大会の地獄を知る選手たちが中心のチームだけに、何とかやってくれるだろうという期待も高かった。

 6月14日の初戦・コートジボワール戦(レシフェ)。エース・本田のワールドクラスのゴールで先制した日本は、4年前のカメルーン戦(ブルームフォンテーヌ)の再現を見せてくれそうだった。ところがそこから相手にボールを支配され、ズルズルをラインを下げられ、防戦一方になってしまう。自分たちがボールを保持するスタイルしかなかった日本にとって、自陣に引いて守る形は想定外としか言いようがなかった。それでも前半は何とか耐えていたが、後半になって相手がドログバ(チェルシー)を投入してくると、守備陣が耐え切れなくなる。そしてわずか2分間でボニー(マンC)とジェルビーニョ(ローマ)に2失点。GK川島永嗣(リエージュ)の反応が及ばなかったのも痛かった。この衝撃的な逆転負けは2006年ドイツ大会の初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)を彷彿させるものだった。当時を知る遠藤が「今大会はドイツの時に流れが似ている」と警鐘を鳴らしていたにもかかわらず、日本は同じ轍を踏んでしまったのだ。

 これで選手たちはどうしたらいいか分からなくなり、自分たちの言いたいことを言い始めた。ワールドカップ経験のないザックも修正が利かず、精神的混乱が見て取れた。19日の第2戦・ギリシャ戦(ナタル)ではエースナンバー10を託した男・香川をスタメンから外すという乱暴な采配に出たが、それも裏目に出てチームは膠着状態に。相手が10人になったのも災いし、一方的に主導権を握りながら0−0のドローに終わってしまう。

 日本は24日のラスト・コロンビア戦(クイアバ)で勝利を挙げ、ギリシャがコートジボワールに引き分け以上で奇跡の16強が現実になる。この大一番でザックはこれまで4年間信じてきた遠藤をスタメンに戻すと見られたが、大ベテランはまたもベンチ。ボランチに入ったのは世界大会初体験の青山だった。そして大久保を1トップに起用。何とか先制点がほしかった。

 しかし前半16分、今野がラモス(ドルトムント)を倒してしまい、いきなりPKを献上してしまう。これをクアドラード(チェルシー)に決められ、日本はいきなりビハインドを背負う。それでもこれまで2試合よりは自分たちのスタイルを前面に押し出し、前半終了間際に本田のアシストから岡崎が泥臭いヘッドで同点に。1−1となり、かすかに1次リーグ突破が見えてきた。

 けれどもコロンビアは後半頭から若きスター、ハメス・ロドリゲス(レアル・マドリード)を投入。一気に畳みかけてくる。ハメスの一挙手一投足に翻弄された日本は後半10分のマルティネス(ポルト)の2点目で守備が崩壊。さらに2点を失って1−4で惨敗を喫してしまう。自分たちのスタイルが世界基準には全く達していなかったことを、選手たちは思い知らされたのだ。

 大会後の協会の総括では、直前合宿地での過度な走り込み、イトゥと試合会場が遠かったことなど環境面の問題が主に指摘されたが、世界トップレベルに自分たちが主導権を握れるという前提でしかチーム作りをしなかったことが全てではないか。指揮官もワールドカップ経験がなかったため的確な修正策を取れなかった。守備の脆さ、決定力不足といった課題も以前から変わっていなかった。そういう厳しい現実ばかりを突きつけられた日本。ここから這い上がるのは簡単ではないことを多くの人々が再認識するいい機会となった。

選手・試合データはこちら

EG 番記者取材速報

League リーグ・大会