Feature 特集

その名を刻んだ男たち FW 39 阿部 吉朗(松本山雅FC)インタビュー①

2016/1/8 16:02



パワーがあるうちに自分の思いを伝えることができたら

引き際を決めるのは難しい

――引退発表があったのは12月1日でしたが、11月22日のリーグ戦終了後はどうなさっていたんですか?
「すでに引退を決めていたので、残りの練習には参加しませんでした。ソリさん(反町監督)の力になりたいという思いがあって松本に来たこともあり、J2への降格が決まったときに『ここだな』と。引き際をどうするか。力不足を実感したら辞めようと思ったんです」

――どこまですり減ったらやめるのか。
「引き際を決めるのは難しいです。サッカーを好きな気持ちはありますが、目指すところがないとパワーを持っていけない。昔から目指すところに向けて努力するタイプだったので、この年齢になり、また新しく目標を定めてトレーニングをする。となると、ではどこに目標を設定すればいいのか…。やれるかやれないかで言えばやれるのですが、でも、形にできるかどうかを考えたときに、それはできないと思いました。であれば、これからの人生、やりたいこと、できることに力を費やしていきたい。パワーがあるうちに地元つくばの小学校の子どもたちに、自分が小さいときに感じたことを伝えることができたら、まだパワーを感じているうちに教えられたら、と」

――松本で終わりにしようと思う前からサッカースクールでの指導は念頭にあったのですか。
「松本が最後のチームになると思っていました。ほかのチームに行く気持ちはありませんでした。磐田で引退するかオファーがあったとしても(反町監督が指揮を執る)松本だな、と。松本からオファーが来なければ辞めようと思っていたところ、ソリさんに誘っていただいて。磐田との契約が1年残っていましたが、磐田の方々が“辞める場所”を選ばせてくれました。引退の仕方はそれぞれだと思います。自分の納得できる監督の下で辞められたことは、自分の感じ方ですけれども、幸せなんじゃないかなと思います」

――その1年前、流通経済大の中野雄二監督にも相談したそうですね。
「中野さんは僕にすごく強い影響を与えた方なので。子どもを連れて遊びに行ったり、家族ぐるみでお付き合いをさせてもらっています。中野さんと博子(夫人)さんとは高校のときから大学4年までずっと一緒で、お二人の後押しがなければプロになれていないと思います。(引退を決めて)最初に挨拶に行きましたし。(松本への移籍は)磐田であと1年と言われたときに、ソリさんのところで(プレーしたい)、と話をしました。いろいろと我慢することが多くなっていく年齢(30代)なので、松本以外のチームでは我慢することが難しいんじゃないかと思っていました。今季(15年)も、もっとこうしてほしい、こうやったらうまくいくのにとか、後悔が多くて。こういうところにボールがほしい、ロングボールばかり蹴らないでほしいとか。それでもソリさんだから我慢できたところはあります。よく、どの監督ともできる選手が良い選手だと言われますが、人間だからそんなことはないと思うんです。使われなかったらイヤでしょうし、自分の考えと違っていたらイヤでしょうし。監督にも考え方がいろいろあれば、選手にもいろいろある。それが合わなければ、どこでも、というわけにはいかない。そう考えることが35歳までにありました。僕が点を取っているシーズンを見てもらえれば分かりますが、そういう年は気持ちが入っています。プラスαの力を引き出してくれる監督やサポーターがいるとモチベーションが上がる。それがプロにふさわしいのかそうでないのかの判断はお任せしますが、僕は人間だからやはりそういう気持ちが強い。原さん(原博実現・日本サッカー協会専務理事)のときもそうでしたし、ソリさんのときもそうでした」

――磐田ではいかがでしたか。
「名波さん(名波浩監督)はまた異なる魅力がありました。それに(FC)東京で一緒だったスタッフの方もいたので、ここでもうちょっとやってみたいなと思ってはいたんです。磐田のサッカーはやっぱり面白いですよ。入って来る縦パスもレベルが高い。でも、最後はソリさんのところでやりたいという気持ち、そして松本にはサポーターの応援や選手の気質も含めた魅力があった。また、スイッチを入れ替えられた。東京のときは原さんが、湘南のときにはソリさんがスイッチを入れてくれた。この人がダメと言うなら本当にダメなんだなと納得できる。この人にサブと言われるなら、『お疲れ』と言われるなら、しょうがない。最後はそういう監督の下で辞めたい、と。人を選ばずにハッキリ言う人が好きなんです。名波さんもそうです。外国籍選手であるとか関係なしに言います。ソリさんもそうです。特定の選手を特別扱いする監督もいますが、チーム全体のことを考えると、それは良くない部分もある。みんなに同じことを言うから初めて筋が通るわけで、それができないと選手は離れていきます。原さんにナビスコカップで優勝させてもらったときは、『一丸とはああいうことなんだな』と実感しました。レギュラーもサブもメンバー外も関係なしに一つになって。メンバー外の選手には、徹さん(長澤徹当時・FC東京コーチ、現・岡山監督)がここで頑張ったら上に行けるんだという環境を作ってくれました。そのときには倉又さん(倉又寿雄現・立教大サッカー部監督)がヘッドコーチとしてうまくつなげてくれて、という具合に組織が本当にしっかりしていました」

――チーム内で力を持っている選手や外国籍選手にウエイトを置くことがあるとはよく聞きます。
「うまい選手が素晴らしいプレーをしたら当然試合に出るべきですし、出ていない選手は頑張ってプレッシャーを掛けることが必要です。競争になれば、サブの選手はいつでも出られるようにしておかないといけない緊張感と責任感が生まれる。調子を落としたレギュラーも意識がさらに高くなる。調子の良い選手はさらにレベルアップするし、調子が悪ければ代えられる。選手層の厚さを感じさせて選手を伸ばす。このコントロールがうまくできる監督は素晴らしいと思いますし、選手も気持ちがいい。うまい選手も自分だけが特別だとは思わなくなる。ミスの原因が分かっていて自分で修正できそうな選手には『いまのはこうじゃないのか』ぐらいで終わりますが、なんとなくミスしたことには怒ります。選手は、叱られて追求して成長するんです」

──磐田は追求する風土がありそうですが、13年にJ2に降格してしまいました。
「J2に落ちたときは、最後をやり過ぎてしまいました。パス回しは面白いのですが、シュートまで行かない。でも、やろうとしていることや練習は楽しかったですよ。松本はロングボールが多いので、ポゼッションよりもセカンドボールをどう拾うかをよく考えました。ただ、松本で悔しかったのは、前(線の選手)は追いかけて守備をして、後ろがセットプレーで点を取る。どちらがDFかFWか分からないということ。少ない時間でも『絶対に俺はFWなんだ』というところを見せたい。でも、ロングスローとセンタリングからDFが点を取る。FWはメンツないですよ(苦笑)。でもJ1・1年目はそれでやっていくということなので、加入したときから腹をくくっていた部分ではあります。でも、それでもFWとして悔しかった」

──戦術に合わせる必要はあるけれども、やっぱりサッカー選手の根本として点を取りたい。
「FWだから点を取らないと生き残っていけません。こうしてほしいということもあります。(15年は)少ない時間で5点(1st・195分出場3点、2nd・326分出場2点)。オビナの次ですかね(オビナ年間6点、岩上年間4点)。でも、ほぼセットプレーでした。僕は出たら絶対に流れの中から取ってやろうと思っていました」

パワーを持ったまま次に行ける

──それでは今までのサッカー人生を振り返ってください。
「大学4年の、当初は6月くらいからFC東京に入ってくれと言われていました。でも、仲間と臨む最後の大会だからと、関東大学リーグと総理大臣杯を優先して、2002年の11月から(プロ契約をして)14年間。あっという間でした」

──そんなに早く過ぎ去った感じなんですか。
「一番長く感じたのは1、2年目ですね。初めて(プロクラブに)入った刺激と、すべてを100%でやり過ぎたことで、疲労感がすごかったですし。いまは抜くべきところで力を抜いたり、間でボールをもらったりすることを覚えましたけれども、昔は1対1で目の前の相手に勝つことしか考えていなかったので、疲弊したんです。それは悪いことではなく必要なのですが、あくまで手段の一つ。ゴールにもっと近いところでボールをもらえるなら、1対1をしなくてもボールのもらい方はいくつもあるし、それができないなら1対1で勝負をしかけていけばいい。ゴールに一番近いポジションを取るやり方はいくらでもあると思う。それも、賢くそこに行ければ一番いい。そういう賢さは徐々に身に付きました。年齢を重ねてサッカーが楽しくなってきた。昔は身体能力だけでやっていたようなものです。そういう楽しさを持ったまま辞めることができたと思います。自分の中で区切りができたので、いまはスッキリしています。後悔もありません。完全燃焼か不完全燃焼かで言うと、それを言葉で表すのは難しいのですが、完全燃焼してしまったら次にやる気が出ないと思うんです。僕はちょっとぐらい悔しいと思う気持ちがあったまま次を迎えたい。だから『次はこうしてやろう』という気持ちがある。パワーを持ったまま次に行けることは、僕の中で大切なこと。そこは、サッカー人生で学ばせてもらいました」

──あえていじわるな言い方をすると、二ケタ得点のシーズンもありました。十分にできたのか、もっとできたのか。
「湘南のとき(10年・J1)はカップ戦の1点を合わせて10点。僕は点で合わせるタイプなので、カテゴリーは選ばないと思っていたんですが、J1のほうがモチベーションが高くなるのか、J2だから得点できたというわけでもないんです。J1であれば『この選手ならこうだな』という駆け引きで点が取れても、J2ではJ1と同じようなプレッシャーが来ないために肩透かしになってしまうこともありました。頭の仕様がJ1になっていたのかもしれません。湘南のときは34試合フル出場したから取れたという面もあります。今回(15年・松本)は500分強で5点。ただ、(短い)500分とはいえ1対1のチャンスもありましたし、僕の基準では8点は取っていなければいけなかった。神戸戦の2点目を取れるか取れないかの場面でGKに当ててしまったとき(2nd第16節の55分、1●2@ノエスタ)に感じたのは、昔の自分であれば、GKの足が止まるか止まらないかを見て、上か止まる前の動いているときに足の横のところを狙うか、という判断をギリギリでしていたのですが、それが見えずにゴールのことばかり意識していました。ああいう(残留が懸かかった崖っぷちの)試合だったから(心理的な)プレッシャーを感じた部分はあったとはいえ、それで見えないというのは…。本来はそこまで感覚を研ぎ澄ませないといけない。昔はできた、と言うのはイヤなんですよ。昔がそうだったからこそ、より成長していなければいけないのに。時間さえ…すみません、たらればになってしまうのですが、時間さえもらえば、僕は35(歳)でも10点取れた、いまよりは取れたと思います。そういう自信を持ちながらやってきました。もっと取りたかった、もっと力になりたかったという気持ちはあります」

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