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遥か彼方を飛んだ、時代の先駆者/ヨハン・クライフ氏 追悼②

2016/3/28 17:57


Photo: PICS UNITEDアフロ

日本にも受け継がれる、偉大な革新家の思考 文・西川 結城


 ヨハン・クライフと本田圭佑。その接点が、バルセロナにあった。

 11年秋に本田は右ひざ半月板を負傷した。手術を行い、その後もリハビリや検査で通っていたのが、バルセロナにあるオスピタル・キロン(キロン病院)だった。ひざの名医が在籍し、アンドレス・イニエスタやジェラール・ピケなどバルセロナの選手たちも負傷時は当院に通ったという医療施設だ。

 約3年前、本田が検査で訪れた際、偶然居合わせたのがクライフだった。当時の状況を本田は、「そこまで親しい間柄ではないんですけど、バルセロナの病院で会ったのが初めてでした。『どうしてここにいるんですか?』と聞いたら、『先週、スコットランドでゴルフをしていて、ちょっと腰を痛めた』と話していた。それが全部ジョークだったかは、僕には分からないですけど」と、語った。

 それ以前にも、両者には間接的なつながりがあった。本田がオランダ2部のVVVフェンロに在籍した08-09年シーズンにリーグMVPに輝くと、副賞として得た権利を行使して高校時代を過ごした石川県金沢市に『クライフコート』を設立。子供たちがサッカーを楽しむための環境作りを目的としたクライフ財団の活動に、本田も関与していた。

「お会いする以前からクライフコートの話が進んでいたので、そのお礼も言えた。僕はオランダでプレーしていたこともあって、いろいろな人からクライフさんの話を聞いてきた。すごく身近に感じていたので、この度は、HPで(哀悼の)コメントもさせてもらいました」

 サッカーを攻撃的に、よりエンターテイメント性の高い競技へと昇華させた功労者でもあるクライフ。「常識を覆した人だと思う」。敬服の意を込めて、本田は偉大なる革新家の人生に賛辞の言葉を述べた。その思考は、今後も世代を越えた選手やサッカー関係者に連綿と受け継がれていくだろう。世界中で、そしてここ日本でも―。


ヘンドリック・ヨハネス・クライフ(Hendrik Johannes Cruijff)
1947年4月25日-2016年3月24日(満68歳没)。オランダ・アムステルダム出身。64年に16歳でアヤックス(オランダ)とプロ契約。リヌス・ミケルス監督の下、“トータル・フットボール”の体現者として活躍。在籍10シーズンでリーグ戦優勝6回、カップ戦優勝4回、UEFAチャンピオンズカップ(現・欧州CL)3連覇を達成し、バロンドールを2度受賞した。73年、バルセロナ(スペイン)に移籍し、リーグ優勝に大きく貢献。同年に3度目のバロンドールを受賞した。78年、バルセロナ退団と同時に一度は現役を引退するも、翌年にロサンゼルス・アズテックス(米国)で現役復帰。以降は、ワシントン・ディプロマッツ(米国)、レバンテ(スペイン)、フェイエノールト(オランダ)などでプレーし、84年に正式に現役を引退した。オランダ代表では74年西ドイツW杯に出場。決勝でベッケンバウアー率いる西ドイツに敗れ準優勝に終わるが、クライフを中心としたオランダの“トータル・フットボール”は世界中のサッカーファンを魅了し、「クライフの大会」と呼ばれた。引退後は、アヤックス、バルセロナで監督を務め、1980年代後半から1990年代中盤にかけては、「ドリーム・チーム」を率いてリーグ戦4連覇を含む数々のタイトルをバルセロナにもたらした。

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