どうしたらいいか分からない葛藤の中で自分と向き合って答えを決めた
昼間はサッカーの練習場、夜はネットの世界
―現役生活を終えたいまの心境は?
「トッキークラブというファンクラブがありまして、その引退パーティーの準備で慌ただしくしていました(笑)」
―トッキークラブとは?
「サポーターの皆さんが作ってくれた公式ファンクラブです。TwitterとかSNSにアカウントがあったりして、いろいろと面倒をみてもらっているんです。本当にありがたいです」
―トッキークラブのスタートは?
「アメーバピグ(※)です(笑)。プロ入り2年目の水戸時代に、ファンの人たちと交流する機会を設けたいと思いまして、当時はやっていたピグを始めたんです。ファンの人たちが自分の部屋に来てくれたのはいいんですが、同時にいろいろな人から質問をもらったりして、自分もパソコンの文字入力が遅いので、対応できず収集がつかなくなってしまいました。そうしたら、ある一人の方が『質問がある方はこちらにお並びください!』と誘導してくれて、最後には『みんなで記念撮影しましょう!』みたいな感じで、まとめてもらいました。その対応が見事で素晴らしいと思いまして、部長に任命させてもらいました。それが、トッキークラブの始まりだったかと思います」
※アバター(ピグ)を作り、そのアバターを使って仮想空間内で自分の部屋を作ったりゲームをしたりチャットを行うwebサービス
―ピグにハマった?
「昼間はサッカーの練習場にいて、夜はネットの世界にいました(笑)。プロとしてファンサービスが大切だと思っていましたが、練習場には来られない人もいますし、来たとしても時間が限られてしまいます。ピグだと質問とかも受けやすいですし、みんなでワイワイやっていました。ファンサービスとしては良いシステムだと思っています。いまは頻度が下がりましたが、たまにやっていますね。ファンクラブの人たちは定例会をしてくれているようです」
サッカーを続けさせてもらったという表現が正しい
―10年に水戸に加入した経緯は?
「大学は東京農業大だったのですが、自分が1年のときに関東大学リーグで2部に降格してしまって、ずっと2部のままでした。プロに行くなら1部でないとダメだと思っていましたが、4年のときに水戸が声をかけてくれてプロ入りが決まりました」
―高校からの経歴がユニークですが?
「高校は早稲田実高で、サッカー部だったんですけど、1年のときに留年することが決まりまして、サッカー用語で言うと『単年契約』ですね(笑)。そのまま留年するという選択肢もあったのですが、そうすると4年目は公式戦に出られないので、サッカーができる環境を探しました。その流れでFC東京U-18を紹介してもらい、高校は通信制に切り替えました。格好良く言うとサッカーを優先しての決断ですが、簡単に言えば頭が悪かったんです。高校が通信制だったので、大学も受験できるところが限られていて、東農大に面倒をみてもらいました」
―FC東京U-18時代はどうでしたか?
「高校2年で加入するのはかなり異例だったので、賛否があったと聞いています。当時は、長島裕明さん(16年徳島監督)が監督でしたが、『お前を受け入れることがどういうことか理解しろ。ピッチ内外でしっかりと考えて行動するように』と指導を受けました。だから、その2年間はありえないくらい厳しかったです」
―いろいろな人たちの支えでプロになれた?
「それは間違いないです。自分自身には甘さがあったと思います。でもさまざまな場面で、たくさんの方が支えてくれて、サッカーを続けることができました。続けさせてもらったという表現が正しいと思います」
ゴールパフォーマンスのバク宙はタイミングが大事
―水戸時代の思い出は?
「自分はサッカーを何も知らなかったのだと痛感しました。当時監督だった木山隆之さん(16年愛媛監督/17年山形監督)にイチから教えてもらいました。同じポジションに、吉原宏太さん(元日本代表/現札幌クラブアドバイザリースタッフ)という良いお手本がいたので、一つでも多くのプレーを盗もうと必死でした。2年目は、監督が哲さん(柱谷哲二氏・16年鳥取監督/17年JFL八戸監督)に代わり、途中からはタカさん(鈴木隆行)も加入したので、ポジション争いは厳しくなりましたが、より刺激的でした」
―水戸時代で印象に残っている試合は?
「デビュー戦と、初ゴールを挙げた試合です。デビュー戦は、柏でのアウェイ戦(10年J2第5節・0◯1)でした。真っ黄色の日立台に、われわれ青の軍団が乗り込んで、ブーイングと迫力がすごかったのを覚えています。『ここは、日本!?』という感じで、ゾクっとしました。初ゴールは、ホームの大分戦(10年J2第19節・2●1)で、途中出場で初ゴールを決めました。ゴール前でガチャガチャっとなって、右足で蹴り込みました。それまで(利き足の)左足で決めてやろうと思って練習してきたので、入った瞬間に『えっ、右なんだ』と思いました」
―初ゴールでは得意のバク宙を初披露しました。
「自分のアピールポイントなので、ゴールしてすぐにバク宙を華麗に決めました。自分の中ではパーフェクトな出来だったので、試合後にスカパー!の映像を楽しみにしていたら、ゴール後にカメラがベンチ方向に切り替わっていて、自分のバク宙は最後の着地くらいしか映っていませんでした。だれも僕がバク宙するなんて思っていなかったのでしょう。『カメラが間に合ってねー』って(笑)。その失敗から、バク宙のときはタイミングを考えなければいけないと気付きました」
―それからのバク宙はカメラワークを意識できましたか?
「カメラワークはばっちり押さえることができたんですけど、タイミングを計っている間に今度はチームメートが寄ってきて困りました。助走コースに選手が入ってしまったり、ジャンプする瞬間に近くに来たり…。『オレの見せ場なので、どいて、どいて』って。何回かやることによって周囲も放っておいてくれるようになりましたね」
―水戸で2年間プレーしたあとに北九州へ移籍しました。
「水戸で契約満了になったあとにヤスさん(三浦泰年氏・16年富山監督/17年鹿児島監督)が声をかけてくれて、北九州に行くことが決まりました。でも自分の中では、どうしてもトライアウトという場が見てみたくて、代理人に相談してトライアウトに参加させてもらいました。そうしたら、ヤスさんにバレて『なんでトライアウト参加してるんだよ』と怒られてしまいました。事情を説明して理解してもらいましたけど、トライアウトの緊張感は、自分にとってプラスになったと思っています」
―北九州での思い出は?
「福岡ダービー(12年J2第29節・福岡戦・4●2)でのゴールです。あのゴールは、自分のサッカー人生の分岐点だった気がしています。自分の中でのベストゴールになるのかな。3-2でリードしての後半ロスタイム、35mくらいのロングレンジだったんですけど、打った瞬間に『ヤバい』という直感がありました。無回転でゴールへ飛んでいってGKを越えて、グッと落ちたんです。『これ、(うまく)いったやつだよ。見てて、見てて』と心の中で思っていました。北九州が初めて福岡に勝った歴史的な試合で、あのゴールは忘れられません」
―13年には北九州から東京Vへ移籍しました。
「ヤスさんが東京Vに行くときに声をかけてもらって一緒に連れていってもらいました。僕はもともとFC東京U-18だったので、ヤスさんが心配してくれて、『お前は青赤だけど大丈夫か』って。確かにFC東京U-18でしたけど、そのあとの東農大は緑だったので、『青赤ですけど、緑の血も流れているので問題ありません』と答えました」
―東京V時代はどうでしたか?
「13年の東京Vは、J1に昇格できたチームだったと思いますし、昇格しなければいけないくらい個の力はすごかったです。何も施さなくてもある程度は戦えてしまうチームでしたが、そこに戦術を落とし込むとなるとまた別の難しさがあるなと感じました。タカさん(高原直泰/現・沖縄SV)、西さん(西紀寛/現・沖縄SV)、飯尾さん(飯尾一慶/現・沖縄SV)、森さん(森勇介/現・沖縄SV)などと一緒にプレーできたことは財産です。タカさんとは2トップを組ませてもらっていたのですが、タカさんの動きを見ながら、自分も動きを変えていました。あと、巻さん(巻誠一郎/現・熊本)にも影響を受けました」
―いろいろなFWとプレーして学んだことも多かった?
「タイプの違う多くの選手と一緒にプレーすることで、FWとしての技術や駆け引きを学ばせてもらいました。東京Vの2年目は平本一樹さんが期限付き移籍からチームに戻ってきて、同じ八王子市出身だったので意気投合しました。プレーの面でもピッチ外でも、お世話になりました。八王子ラインの絆がありましたね」
―東京Vでの1年目はキャリアハイの8ゴールでした。
「8ゴールは自分の中で最多でしたけど、二ケタに届いていない時点でダメです」
―15年は熊本、16年は群馬でプレーしましたが?
「15年の時点で群馬からもオファーをもらっていたのですが、最終的には熊本を選ばせてもらいました。今季、また縁があって群馬からオファーをもらいました。今季は開幕から調子が良くて、開幕戦(岐阜戦・4●0)でゴールを決めて、チームも2連勝スタートとなりました。でも…そのあとのJ2第5節・千葉戦(0△0)後に、母が亡くなりました」
一度自分の頭の中を初期化したい
―千葉戦後は約2週間、練習にも参加しませんでした。
「千葉戦の後半に脳しんとうで途中交代したので、みんなその影響だと思っていたかもしれませんが、実際は母のことでサッカーについて考えられなくなっていました。『もう、いいでしょ』という感じになってしまいました。その時点で、引退が頭をよぎりました」
―復帰後もショックの影響はありましたか?
「いつも試合前は、グッと集中できて、“ゾーン”という感じで自分の世界に入れていたのですが、あのあとはそういうモードに持ち込むことができずに、世界に入り切れませんでした。どうしたらいいのか分からない中で葛藤を抱えながらのプレーになってしまいました。その中で、やれることはやったつもりです」
―現役引退を服部監督に伝えたときの心境は?
「チームのJ2残留がなかなか決まらず、いろいろな選手の立場もあるので、迷惑がかからない時期に話そうと思っていました。いろいろな人の思いも背負ってプレーしていたので、自分一人だけの判断で決めてはいけないというモヤモヤした考えもありました。チームメートの誰にも相談せず、第36節・長崎戦(3●0)のあとに監督にだけ伝えました。選手に相談すれば、引き止めてくれると思いますが、それによって自分の判断がブレてしまうなら、自分と向き合って答えを決めるべきだと感じていました。現役続行と引退を天秤にかけるような状況であれば、現役続行を選択していたと思います。でも今回は自分の中で天秤にかけられるような状況ではありませんでした。『家族への愛情』とまとめればきれいかもしれませんが、そんなきれいな感じでもありません。いまはうまく言葉で説明できないんです」
―今後は家業を継ぐと聞きましたが?
「その予定ですが、いつから働くかは決めていません。しばらくは何も考えずに、一度自分の頭の中を初期化したいと思っています。自分自身を空っぽにするために旅に出るかもしれませんし。いまはとにかく空っぽになりたいです」
おわり…
聞き手:伊藤 寿学 取材日:11月28日
常盤 聡(ときわ・さとし)1987年5月14日生まれ、29歳。東京都八王子市出身。172cm/64kg。横河武蔵野FC.JY→早稲田実高→FC東京U-18→東京農大→水戸→北九州→東京V→熊本を経て、今季群馬に完全移籍。J2通算195試合出場30得点。