12日に来日したディエゴ・フォルラン。彼と親交の深いイギリス人ジャーナリストがC大阪への移籍を決断した背景、そしてフォルランという男の根底に流れるモノを明かす。
文:アンディ・ミッテン/翻訳・構成:田嶋コウスケ
長居スタジアムの写真
「セレッソ大阪でプレーすることにしたんだ」
ディエゴ・フォルランから「日本行き」の決断を告白されたのは、ツイッターで発表する5日前のことだった。
私がブラジルW杯の事前取材で当地を訪れたのは1月17日。当時ブラジルメディアは「インテルナシオナル残留」、「ボダフォゴへ国内移籍」と去就について騒ぎ立てていたが、少なくとも1月上旬までにフォルランの心は「C大阪」で決まっていた。
その証拠に、彼の自宅を訪れた私に対し、彼は1枚の写真を見せてくれた。
C大阪の本拠地、長居スタジアムの写真である。「ここがスタジアムなんだ」とうれしそうに語り始めると、いかにC大阪のサポーターが献身的にチームを支えているか、昨年7月に行われたマンチェスターUとの親善試合で香川真司がどれほど暖かく迎えられたのかを熱心に説明してくれた。
「日本には試合で4回ほど訪れたことがあってね。日本の人は親切で、印象が良い」。昨年12月に結婚したばかりのパス夫人とともに、すでに新天地の日本に思いを馳せていた。
リベルタドーレス杯。父と同じ道
ただ移籍を決断するにあたり、フォルランには一つだけ心残りがあったように思う。それは34歳のベテランになったいまも出場経験のないリベルタドーレス杯(※南米クラブチームによる大陸選手権。南米最強クラブを決める大会で、優勝チームにはFIFAクラブW杯の出場権が与えられる)。
これまでW杯得点王やリーガ・エスパニョーラ得点王の称号といった多くの個人タイトルを獲得してきたが、このリベルタドーレス杯だけは縁がなかった。「いつか、この大会でプレーしたい」。フォルランは常々、こう口にしていたのである。
「リベルタドーレス杯は、南米の欧州CLのようなもの。元サッカー選手の父パブロは、1966年にペニャロール(ウルグアイ)の一員として、南米の頂点に立ったんだ。僕は父からこの大会についていろいろ聞かされて育った。父と同じように、いつかリベルタドーレス杯のトロフィーを掲げたい」
父と同じ道を歩むのが夢─。フォルランがよく口にする言葉だ。サッカー選手として初めてピッチに立ったのも、当時父親がコーチを務めていたペニャロールだった。ウルグアイ代表としてW杯出場経験もある父パブロについて、フォルランはこう語る。
「マンチェスターU時代のアレックス・ファーガソンや、ビジャレアル時代のマヌエル・ペジェグリーニ(現マンチェスターC)ら世界的な名将の下でプレーしてきたが・・・