W杯優勝という大きな目標を掲げ、ザックジャパンをけん引する本田圭佑。プロ入り後10年目、27歳で迎える2度目のW杯は彼にとっても一つの集大成と言える。そこで3章に分けて本田のこれまでの軌跡を追う。前編は名古屋グランパス時代。彼は何を考え、何を目指していたのか。そこから本田圭佑の“原点”が見えてくる。
文・西川結城
真っ赤なコートに身を包んで
2007年12月。名古屋グランパスのクラブハウス横にある駐車場で、本田圭佑は自分へのご褒美を前に嬉々として声を上げていた。
「これ、めっちゃイケてません?カッコええですよね。これ着て、向こうでも歩こうかなと思っていて」
手にしていたのは、真紅の革のロングコート。その値段は伏せておくが、ここから戦いの舞台に出て行く自分に気合いを入れるためにも、購入したものだという。それから数カ月後、TV画面にはオランダの地で髪を金色に染めた本田が、赤いコートを羽織って颯爽と歩く姿が映し出されていた。
日々、頭の中で思い描いていた欧州挑戦。その第一歩は華々しく、そして本田らしく派手さにも満ちた様子だった。
当時から漂っていた大物感
名古屋市に隣接する愛知県日進市。そこに、当時本田は住んでいた。グランパスの練習場までは、車で30分足らず。2005年にプロ入り後、1年間はクラブの選手寮に入っていたが、2年目からはマンションを借りていた。
そこでは一人暮らしではなかった。同い年の青年と、二人暮らし。その彼は、本田の身の回りの世話や、サッカー以外の仕事の調整を行っていた。20歳にして本田はすでに個人マネージャーを付けていたのだ。
練習場にも、毎日そのマネージャーの運転でやってきた。2006年にクラブスポンサー主催の年間最優秀選手賞に若くして選出され、贈られたのは白のランドクルーザー。その目立つ大きな四駆車でクラブハウスに乗り付ける様は、すでに当時から大物感を漂わせていた。
ただ、マネージャーを付けた理由は何もステイタスを意識した“タレントごっこ”だったわけではない。男の一人暮らしにとって、やはり家事や雑務は悩みどころの一つ。ましてやプロアスリートでもある。1分、1秒でもサッカーのことに集中するためにも、自分をサポートしてくれる存在は不可欠と、本田はその年齢時から悟っていた。
そんな考え方や姿勢を、先輩選手たちは自然と受け入れていた。当時のグランパスには秋田豊(06年まで)や藤田俊哉、そして楢崎正剛といった日本を代表する偉大な選手たちがいた。
彼らは一様に、本田特有の少々尖ったプロ意識を、温かくも頼もしく見守っていた・・・